- 作者: 上坂冬子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2013/05/24
- メディア: Kindle版
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上坂冬子『巣鴨プリズン13号鉄扉 BC級戦犯とその遺族』を読み終わった。
どの話も、どれも重く、貴重な話だとは思うが、中でも特に、福岡の嘉穂の人だった、石垣島事件で死刑となった藤中松雄という方の家族に宛てた遺書の中の以下の平和を願う言葉は、後世は忘れてはならないものなのではないかと思えてならない。
(引用タイピングにあたり、読みやすいように若干かなづかい等を変えた。原文は同書当該ページ数参照。)
「父が忘れることのできないかわいい孝一と孝幸に、最後の言葉として最も強く残して置きたいのは、
『父はなぜ死んでゆかねばならいか』
ということであります。
(中略)それは全世界人類がこぞって嫌う、いまいましい戦争のせいなのです。
父は今となって上官の命令云々などと言ふ時間の余裕がありません。
戦争さえなかったら命令する人もなく、父が処刑されるような事件も起らなかったたはずです。
そして、戦場で幾千幾百万という多くの人が戦死もせず、またその家族の人たちが夫を、子を奪われ、父を、兄を、弟を奪われて泣き悲しむ必要もなかったのです。
だから、父は孝一・孝幸ちゃんに願ってやまないことは、いかなることがあっても
『戦争絶対反対』
を生命のある限り、そして子にも孫にも叫んでいただくと共に、
全人類がこぞって願う
『世界永遠の平和』
のために貢献していただきたいことであります。
(中略)そればかりじゃ世界は平和にならないのです。
肉親の兄弟を愛し合うように他人も愛していかねばなりません。
家内が親密なように、それを他の家にも、さらに他の国にも及ぼしてゆかねば平和建設はできないのです。」(286−7頁)
戦争から七十年経った今、「戦争絶対反対」や「世界永遠の平和」という言葉はともすればだいぶうすれて薄まってしまったように思えることもあるけれど、もともとは戦争で亡くなった人々、およびBC級戦犯として不条理な裁判の中で死んでいった人々の、血反吐を吐くような思いの中からつむがれた言葉だったことを、本書を読んであらためて思わずにはいれなかった。
また、この本を読んで、命令に従っただけなのに、死刑となっていった人々や、食料や医薬品が不足した戦争末期の状況の中で、できることは精一杯していたのではないかと読めば読むほど思われる人々が、捕虜虐待ということで死刑になっていった様子に、なんとも言えぬ気持になった。
そうした捕虜虐待の罪で死刑となった人の中でも、『世紀の遺書』の中で、人類愛の必要を主張したり、やや皮肉めいて敗戦後の日本を批判していて、一際個性的な文章を残していて印象に残る水上安俊という人物についても、本書で詳しく記してあった。
本書によれば、その状況下ではできる限り以上の医療に従事したにもかかわらず、ある一部の米軍人の非常に感情的な思いこみや私怨によって死刑となったようである。
水上安俊は、『世紀の遺書』収録の遺書の中では一言も妻について言及されていないので、私もてっきり独身だったのだろうかと思っていたが、本書により、巣鴨の獄中で、本人は深く妻を愛し日記にもそのことを縷々綴っていたつもりが、ある日突然離婚届が届けられ、それから日記にも遺書にも全く妻に対する言及がなくなったのだと知った。
ほとんど筋違いな罪状で戦犯として捕まっただけでも絶望的だったろうに、その上、唐突に離婚届までつきつけられて、その心中は察するにあまりあるものがあったと思う。
もし戦争がなく、また戦犯指定もなければ、おそらくは仲睦まじい夫婦であり続けたのかもしれない。
敗戦後の生活難の中で、結婚して間もなかった相手にこれからの生活のことを考えれば離婚しようと思った女性の側の事情や心情も、なんとも哀れなものがあったのだろう。
徴兵される前は、医師としてらい病の治療に従事し、クラシックを愛し、一際すぐれた知性の持ち主だったようなので、このような時代に巻き込まれなければ、きっともっと良い人生だったろうに、本当に気の毒に思えた。
戦争というものの酷さは、言語を絶するとしか言いようがない。
また、本書を読んでいて、朝鮮半島出身のBC級戦犯の人々の話の、あまりにも気の毒な重い歴史に、絶句せざるを得なかった。
二十六歳で処刑された趙文相という方の、以下の言葉は、著者の上坂さんも「愕然とさせられる数行」と記しているけれど、本当にそう思う。
「『あの世ではまさか朝鮮人とか、日本人とかいう区別はないでしょうね』と金子の詠嘆(の)声。
浮世のはかなき時間になぜ相反し、相憎まねばならないのだろう。
日本人も朝鮮人もないものだ。
皆東洋人じゃないか。
いや西洋人だって同じだ」(353頁)
だが、これらの人々の思いや願いとは裏腹に、サンフランシスコ講和条約発効後、BC級戦犯とされた朝鮮半島出身の人々は、刑罰はそのまま続きながら、日本国民と異なり遺族に補償も年金もないという状態になった。
死刑を免れた人々も、刑期を終えて出獄しても、なんのあてもない悲惨な状況で、中には自殺する人々もいたという。
その中で、タクシー会社を創立し逞しく生き抜いた本書に出てくる人々の姿には胸打たれるし、日本政府が極めて冷淡な中で、朝鮮出身のBC級戦犯の人々がタクシー会社をつくろうという時に、個人として私財をはたいて当時のお金で三百万円を援助したという今井知文という日本人の医師の方の話は、あまりにも重い歴史の中で、数少ない救われる話だったと思う。
その他、あまりにも重い歴史に、時として言葉を失うしかないが、本書は今となってはおそらく物故者も多くなり、再現できない、忘れてはならない言葉や事柄が多く含まれた貴重な証言と思う。
本書を読んでいて、国家というものの非情さや、民族や人種というものの馬鹿馬鹿しさをあらためて思わざるを得なかった。
国家や民族などというものに対しては、いささか冷めた目を持つのが、庶民が身を守るためには本当に必要だし、多くの正直者が馬鹿を見たこれらの歴史を思うと、しみじみそのことを思わざるを得ないのではないか。
そして、これらの人々がどん底でつかんだように、国家や民族を超えた人類愛や平和への願いというものがどれだけ大切なことか。
BC級戦犯として処刑されていった人々が強く願ったように、もう二度とこのような戦争は繰り返してはならないし、それは理屈を超えた、悲願なのだと、本書を読んで思った。
『世紀の遺書』とともに、多くの人に読まれるべき一冊と思う。