小説 「命根」

小説 「命根」 

 

 義明は、小さい頃、歴史小説が好きだった。

 たくさん読んだ本の、ほとんどは忘れてしまった。

 しかし、不思議と覚えている話があった。

 それは、幕末において人斬りと言われた河上彦斎が、佐久間象山を暗殺した時に、「自分の命根が尽きたような思いがした」とのちに述懐したというエピソードである。

 

 義明は「命根」というのがどのような意味なのか、はっきりは知らなかったし、その前も後もほとんど見かけない言葉だったが、なんとなくはわかるような気がした。

 おそらく、命の根っこというか、命を続かせるための何か永遠のいのちやこの世の健全な生命とつながっている何かで、それが切れてしまうと、命が枯れていってしまうのではないか、そういう何か不思議なものが、たしかにこの世にはあり、そのことを言っていると思ったのである。

 もっとも、ほとんどの人は、命根などという言葉は知らず、そんな内容のことも思ったこともないのだと思う。

 

 しかし、義明は、自分にその命根があるのかないのか、あったとしてもどの程度あるのか、甚だ心もとなく思うのだった。

 それは少年時代から続いて、河上彦斎のことをほとんど忘れた、高校生や大学生の頃になっても、自分の命の根っこが心もとなく思う感覚だけは、ずっと続いていた。

 何か本来であれば、もっと生き生きと楽しく、美しく軽く生きとおすことができるはずなのに、何か自分の存在が不安で、生命の根っこから離れているような、そんな宙ぶらりんな心もとない気がするのである。

 

 なので、義明は、自分の命の根っこをつかまえたいと思って、高校生の時分、猛烈な読書をした。

 受験勉強そっちのけで、読書をした。

 義明は、きっと日本伝来の宗教や思想の中に、自分の命の根っこを見つけるヒントがあると思った。

 先祖伝来の宗教や伝統に、自分の命の根はあると思ったのである。

 キリスト教のような外来宗教に、バタ臭い西洋の思想や宗教に、自分の命の根っこがあるわけがない。

 そう思い、儒教や仏教の本をせっせと読んだ。

 大学時代には、坐禅を始めた。

 伊勢や熊野の神社めぐりもしてみた。

 高校時代には短歌を、大学時代には俳句を、せっせと励んだ。

 

 だが、義明には、その時は何か得られたような気がしても、結局は、命の根は見つからない気がした。

 そして、神社や寺にいる人々を見ても、そんなに命の根とつながっている人は見かけなかった。

 それらは気休めにはなっても、そこに命の根は見つからなかった。

 

 その後、義明の姉が死んだ。

 治癒を祈願して、さまざまな神社やお寺にお参りしたが、すべては空しかった。

 義明は、もう日本の神仏には、たのむ気がしなくなった。

 姉が死んだとき、自分の命根も尽きたような気がした。

 根こそぎに命の根がそがれて、もはや生きていく気がしなくなったのである。

 そのあとも、ずいぶんと仏教に打ち込んで、日本の仏教や初期仏教に打ち込んだが、そこでも、義明にとっては、命の根のたしかな手ごたえは感じられなかった。

 

 万策尽きて、三十代半ばの頃、義明は、なぜかイエス・キリストを信じるようになった。

 理由はよくわからなかった。

 万策尽きて、そうならざるを得なかった、としか言いようがないのかもしれない。

 もっともイエス・キリストを拒否し、逃げ回っていた義明が、まさかクリスチャンになろうとは、義明本人もずっと思っていなかった。

 だが、キリストを信じるようになってから、不思議と感じられるのは、命の根がつながったような感覚である。

 

 義明は思った。

 罪とは、命の根を切断することではないか。

 罪の赦しとは、命の根に再びつながることではないか。

 

 なぜキリストを信じると、命の根につながるのか。

 これは理屈では説明がつかないが、実感としては、そうなのだった。

 

 それにしても、命の根とはなんなのだろう。

 目には見えない、何かとしか言いようがない。

 

 実は、義明は、ずいぶん大人になってから、一度だけ河上彦斎の夢を見たことがあった。

 ガラスの美しいオブジェのようなものを、いっぱい河上彦斎がつくっていた。

 そのギャラリーのような小屋の中で、義明は河上彦斎にそれが何かと尋ねると、これは自分が斬った人々の数だけつくっている途中で、罪滅ぼしのために一体一体つくっているのだとのことだった。

 

 義明は、今でも時折、その時の、澄んだ美しいガラスのようなオブジェを思い出す。

 ひょっとしたら、人の命の根っこも、ガラスのような透明な何かなのではないかと思う。

 しかし、きっと、ガラスのようにひんやりとしたものではなく、あたたかいもので、やわらかいもののような気もする。

 

 罪を犯し、人を傷つけることは、きっと大なり小なり、みずから命の根を断つことなのだろう。

 しかし、大なり小なり、そうせざるを得ないのが、人というものである。

 義明は、べつに河上彦斎のように誰かを実際に殺害したことはないが、殺害や暗殺をしようと大なり小なり思ったことがある。

 だとすれば、神の眼から見た罪は似たようなものかもしれない。

 おそらく、イエス・キリストという人は、本来であればいっぱい罪滅ぼしのためにガラスのオブジェをつくっていかなければならない人の分も、命の根をいっぱい無限につくって、誰にでも与えてくれた、回復させてくれた、そんな人だったのではないかと、義明は思うのである。