小説 「常民」

小説 「常民」

 

 「常民」という言葉がある。

 民俗学の用語で、柳田国男などが使っている。

 特に何か特別なことはせず、一生平凡に暮らす。

 そういう人々のことで、そうした人々が民俗学の対象だというのである。

 

 隆司は、べつに民俗学にはさほど関心はないが、ずいぶん昔にこの常民という言葉とその意味を聞いて、とても心惹かれた。

 というのは、自分も常民になりたいと思ったのである。

 

 隆司は平凡な庶民の一人であることはよく自覚していた。

 べつに特別な何かをしたわけでも、有名人でもなんでもない。

 平々凡々たる普通の庶民である。

 しかし、自分は庶民や平民ではあっても、常民ではないのではないかと思えるのである。

 つまり、常民とは、単なる庶民や平民とは違う存在なのではないかと思うのである。

 

 隆司の心の中では、常民とは、特に大それた野心もなく、いたって常識と良識に富み、平穏に生きて、平穏に死んでいく、そういう人々だった。

 ヘロドトスの『歴史』の最初の方に出てくる、クロイソス王がこの世界で最も幸せなのは誰かと尋ねられた賢者ソロンが挙げた、名もない平凡な幸せな人のような人々が、常民なのである。

 自分の故郷にずっと根ざして暮らしているということも、常民には必須の要素のように隆司には思われた。

 文明の毒に冒されることもなく、地道に農業にいそしみ、普通に結婚して子育てをして、普通に年をとって、普通に死んでいって、神や仏を素朴に敬う、そういった人々が、隆司の心の中では「常民」だった。

 昔話や民話をいっぱい古老から聞きおぼえ、子どもにも語ってあげる、そういう存在が常民なのである。

 つまり、外見は常民と同じでも、心中に不安や野心が渦巻いたり、不健全な愚かしさが巣くっていれば、それは庶民や平民ではあっても、常民では決してないと思われるのだ。

 

 常民と比べて、自分はなんと、根無し草なのだろうかと隆司は思う。

 何か聞き覚え、語り継ぐような民話や伝説など何もない。

 むしろ、小さい時は、聖書やギリシャ神話を聞いて育った。

 故郷がどこなのかもよくわからない。

 農業など、やり方もよくわからない。

 

 そのうえ、四六時中、何か不安を感じて生きてきたような気がする。

 安心立命とは、ずいぶん程遠い日々を、若い頃はずっと送っていた。

 家業など何もなく、古老が伝える知恵や地縁血縁の共同体などもない。

 根無し草が、自分が自分の生きる道を探して切り開かなければならなかった。

 そもそも、切り開くことなんてできたのか、いまだに自分の生き方や道がなんなのかよくわからない気がするのである。

 

 何の悩みもなく、常民に生まれつくことができたら、どれほど幸せだったろう。

 今度生まれ変わったら常民に生まれ変わりたい。

 隆司は、そんなことをしばしば思って生きてきた。

 

 しかし、隆司は結婚してから、自分もだんだん常民に近づけたのではないかと思うようになった。

 ずいぶん結婚が遅れた隆司が、今の妻と結婚する決め手のひとつは、妻が「常民」に思えたからだった。

 

 隆司の妻はいたって平凡な、普通の女性で、とりえといえば、朗らかで健康な、「常民」であることである。

妻の両親もいたってまともな人で、父は四国遍路が趣味で、母は家庭菜園が趣味で、いたって平和で常識的だ。

母方の実家は、同じ市ではあるものの、ずいぶん山の上の方で、古くからの農家だそうで、なんでも昭和の天皇が即位する時はお米を献上したとか。

 妻は、そうした親戚の影響だろうか、小学生の時は夏休みの自由研究で蚕を飼ったことがあったそうである。

 その、小学生の時に自由研究で蚕を飼っていたというエピソードが、なぜだか隆司にはぐっときた。

それだけではなかったとしても、隆司が結婚しようと思った理由の少なくとも一つにはなっていた。

 

 実際、結婚した後も、隆司の妻は驚くほどまともで、隆司が理想とする「常民」そのものだった。

 いたって健康で、夜中はしばしばいびきをかきながらすやすや眠る。

 隆司がしばしば陥る、人生や世の中への不安など、まったく無関係で、いつもすこやかで幸せそうである。

 そして、全くといっていいほど、政治に興味がない。

 べつに、ことさら無関心になろうとするのでもなく、政治に幻滅しているのでもなく、そもそも興味がない。

 したがって、隆司がしばしば陥る政治に対する憤激や幻滅や絶望感とは、全く無縁である。

 

 日常のことにはてきぱきと知恵がしっかりあって、四の五の理屈を言うこともなく、万事的確に適切に家事を処理している。

 そして、ときどき時間ができると、かわいい動物が出てくる番組や、実にくだらなそうな隆司は決して見ない二時間サスペンスなどを、面白そうに見ている。

 人生に対して、そもそも意味を求めておらず、目的や計画でぎりぎりすることなど全くなさそうに、平和でのんびりと過ごしている。

 

 隆司は、妻を見ていて、これぞ常民としみじみ思うのだった。

 そして、アダムとイブの原罪は、妻には及んでいないのではないか、と思うのである。

 

 だが、必ずしも、そういうわけでもないのだろうかとも最近は思うようになった。

 先日話していたら、妻も結婚前は、いろんな焦りや寂しさを抱えていたようである。

 結婚したから、今は幸せだそうだ。

 そう考えれば、人間というのは、もともと常民なのではなく、結婚をして常民になるのかもしれない。

 隆司もやっと少し常民になれそうに思った。年を重ねるうちに、いつか完全な常民になりたいと思うのである。