罪のゆるしと罪のきよめについて

北森嘉蔵の本を読んでいたら、以下のことが書いてあって、なるほどーっと思った。

ロマ書8章の「御霊の最初の実」という言葉を引用して、最初の実があるならば、最後の実もあると論じている。

つまり、十字架の贖いによる罪のゆるしは、御霊の最初の実、聖霊による最初の果実である。

だが、それで終わりではない。

御霊の最後の実・聖霊による最後の果実まで、聖霊によって日々に少しずつ罪が清められていく。

罪のゆるしは信仰の最初に一度あり、罪の清めは一生かけて少しずつ続いていく。

ということであり、なるほどなぁと思った。

つまり、信仰を得て、神の前に生きることができるようになること=罪のゆるしを最初に得たとして、そのあと、繰り返し聖書の言葉を聞いて心を洗い、罪から清められ、徐々に心を深め正し成長していく過程が一生続いていく、ということだと思う。

罪のゆるしは回心において一度、罪のきよめは一生すこしずつかけて続くこと、ということだろう。

これは、蓮如上人においても、非常によく似た構造があり、前者が信心決定や回心と言われることで、無量寿経の第十八願に基づいていることを述べている。
一方、後者については、触光柔軟とか光明摂化という言葉で述べており、無量寿経の第三十三願に基づくことを挙げている。

思うに、どちらも重要であり、たしかに前者なくして後者はありえないが、後者を無視するのも間違いなのではないかと思う。

歴史を見た場合、傾向として、前者の罪のゆるしや信仰義認を重視したのがルター派で、後者の罪のきよめを重視したのはメソジストなどが挙げられるのかもしれない。
前者をあまりに重視すると後者がおろそかになり、後者を重視するとともすれば前者がおろそかになってしまうのかもしれない。

浄土教においては、一般的に浄土真宗は、蓮如の促しにもかかわらず、いったいに前者に偏りがちな気がする。
浄土宗の光明主義は後者を重視したが、その結果としてどうも前者がいまいちよくわからなくなりがちだったような気もする。

バランスよく、罪のゆるしと罪のきよめの両方を的確に把握して実現実践するのが、本当の宗教というものなのだろうなぁと思う。