今日は

今日は、聖書の勉強会で使徒行伝の二十章の話を聞いた。
パウロが「言葉を尽して人を励まし」続けたという箇所が、あらためてとても心に残った。
自分もまた、いつか言葉を尽して人を励ますことができるような人間になりたいものだと思う。
また、パウロが夜通し福音を説き続けていた時に、エウティコという若者が三階のベランダのところに腰かけていて、眠くなってうとうとして転落して死んでしまい、パウロがすぐに一階に降りて介抱するとよみがえったという箇所があり、本当に死んでしまっていたのがよみがえったのか、あるいはもともと息がありなんとか助かったのかよくわからないけれど、貴重な話があっている時にもとかくよく聞かなかったり眠ったりしてしまうのが人の常で、にもかかわらず、それで落っこちても、イエスパウロも親のような心でその人を抱きかかえゆすり起し息を吹き返させてくれるのだと、あらためて感銘深く聴いた。

あと、Tさんという八十代半ばぐらいのかわいらしいおばあさんがいるのだけれど、昔イスラエルに行った時のことを御話してくださり、ほとんど忘れてしまったけれども、湖のほとりで祈った時に滂沱と涙が出てきたことだけ覚えております、何かとてもなつかしい気のするところでございました、とガリラヤ湖畔のことを御話してくださったのは、とても胸打たれるありがたい御話だった。

そのあと、T先生と一緒に蕎麦屋に行き、おごちそうになって大変恐縮でありがたかった。

キリスト教の「罪」とは何か?ということを質問すると、

「神と人との、つまり神と自分との関係が狂ってしまっていることがキリスト教における「罪」ということで、本当は神が自分を愛してくださっているのでまっすぐ自分も神を愛するというのがキリスト教における神と人との正しい関係なのですが、人はとかく他のことにそれがちで、違う別の神々を仰いだり、お金や物や権力や他人を崇めたり、もっと言えば自分を何よりも愛して大切にしてしまう、そのように神と人との関係が狂ってしまっている状態がキリスト教の言う「罪」で、この関係が正されることが罪からの救いということです。」

ということを即座に答えてくださり、なるほどーっとやっと明瞭にわかった気がした。
他にもいろいろ御話を聴けてためになった。

良い一日だった。