ヴィーゼル 「昼」

昼 (1972年)

昼 (1972年)

『昼』は、ヴィーゼルの『夜』と『夜明け』に続く、三部作の三部目である。

一部では、ナチス強制収容所における主人公の過酷な体験が描かれ、二部では、独立前のイスラエルレジスタンスに身を投じ、個人的には好感を持っているイギリス軍の将校を命令で銃殺しなければならない様子が描かれていた。

この第三部では、それらとはうってかわって、アメリカのニューヨークで、新聞記者として、平和に暮らしている主人公の様子が描かれる。
周囲が驚くほどの美しい若い恋人もいる。
親友もいる。

しかし、突然、主人公は交通事故に遭い、瀕死の重傷を負う。

搬送された先の病院の医師は非常に誠実で優秀な医者で、恋人や親友の励ましもあり、奇跡的に主人公は命が助かる。

しかし、わりと容態が回復し、まだベッドで身動きができないものの、落ち着いて話せる状態になった時に、その医師が、どうしてあなたは生きようとしないんですか?と主人公に尋ねる。
普通は、医師の自分は患者と二人で手術室で死と闘う、しかし、あなたは意識を失っているとはいえ、全くそうではなかった、むしろ…、と。

主人公は、その医師には、適当にごまかして答えるが、さまざまな思い出を思い出す。

アウシュヴィッツの収容所で、あのようなひどい体験をした後は、自分はどこかで死んでしまっていて、もう生きたいという気持ちもどこかで失せていて、神はとっくに死んでいるし、この世に何の信頼も希望も持てないのだということを。
自分だけでなく、そこで死んでしまった家族や友人たち、あるいは生き残っても自分のように全く信仰を失ってしまった知り合いのこと。
そして、収容所を出てから、たまたま出会ったある女性が、その人も十二歳の時に収容所に入れられて、そこでナチスの将校を相手に慰安婦とされていたことを聞いたこと。
などを思い出す。

だが、主人公は、恋人との月日も思い出す。
その恋人が、主人公の体験や思いを聞いてくれたこと。
なんとか、生の側に引き戻そうと一生懸命努力してきたこと。
一時期別れたが、またある時に寄りを戻したこと。

主人公の親友は画家なので、俺が肖像画を仕上げるまで死ぬなと言って、事故直後から毎日見舞いにやって来ては、肖像画を描いてくれていた。
その親友が、

「神はおそらくは死んだんだろう。しかし、人間には友情がある。」

と言うのは、なんとなく、ほろりとされた。

また、「人間に苦悩が満ちていて、それを運命が何の人間に強いているというならば、人間が自分の意志で、たとえ一時間でも苦悩を止めて過ごすことができたら、それこそが人生や運命への勝利だ。」

ということをその親友が言うシーンがあり、とても考えさせられた。

結局、主人公は、事故から命が助かったが、心が本当に生の方に傾いたのかは、よくはわからないまま物語は終る。

しかし、その恋人や、親友や、医師たちを通して、癒そう、癒そうとする力が、実は、神と呼ばれるものなのではないか、とも思う。

もっとも、人生はそんなに簡単なものではなくて、この恋人自身も、主人公と別れていた間に金持ちと結婚して、その結婚が失敗して離婚し、主人公と寄りを戻してからもしばらくアルコール依存のようになっていた。

結局、人は、大なり小なり、何か問題を抱えたり、苦しみを抱えたりしているのかもしれないし、そうであればこそ、お互いに支え合ったり、必要とし合うことで生きていくのだろう。

主人公の心の傷が癒えることはないのかもしれないが、たとえ少しの時間の間でも、苦悩を止めて、人生を心から喜んだり楽しんだりする時間が、事故の怪我から治った後に、おそらくはかつてよりは増えるのではないか、増えて欲しい、と思った。

三部作を通して、重いが、考えさせられる、読んでよかったと思わさせる、作品だった。