記憶と知恵の関係について 今日聴いたことのメモ

今日は、ユダヤ教のラビのマゴネットさんの御話を聴きに西南大に行ってきた。


この前は創世記についての話だったのだけれど、今回はユダヤにおける「記憶」についての御話だった。


出エジプト記申命記には、繰り返し記憶について、思い出すことについて述べられるそうである。
ユダヤ人が、かつてエジプトで奴隷だったことと、そこから脱出できたことの想起が繰り返し呼びかけられる。
その理由は、かつて自らが身体的にも精神的にも奴隷だったことを思い出し、二度とそうならぬように、そして他の人々をそのような目に遭わせることがないように、記憶の想起を大切にしていたと考えられるそうである。


ホロコースト(ショア)や、近現代におけるユダヤの歴史と、それをめぐる議論についても紹介しながら、記憶とは単に過去を思い出すものではなく、未来へつながっていくものであるということを、ローゼンツヴァイクなどの言葉を紹介しながら述べておられた。


質疑応答の時に、私もこんな質問をしてみた。
今日の御話は、記憶はこれから先の未来に関して、良い未来を実現し、悪い未来を避けることにつながるという御話だったと思います。
その点で、聖書には箴言などで、同じく悪い未来を避け、良い未来を実現するものとして、「知恵」が語られていると思います。
「知恵」と「記憶」はいかなる関係にあると、聖書やユダヤ教では考えているのでしょうか?と。


それに対して、マゴネットさんの返答は、とても考えさせられるものだった。


ご質問を聴いて、すぐに思い浮かんだのは、聖書の中の伝道の書のことでした。
伝道の書においては、未来には何も新しいことはなく、過去の出来事の永遠の循環や繰り返しが説かれます。
さらに、すべてのものごとは一番良い時になされるものである、神によってそれはなされる、ということが述べられます。
したがって、ここにはあまり人間の知恵が入る余地はなく、より良い未来をつくったり、悪い未来を避けるということに関して、人間の記憶や知恵は、あまり関わりがないことが述べられています。
しかし、これは聖書の中にある声の中の一つに過ぎません。
聖書の中には、他にも、違う声もあります。
哀歌の第五章二十一節では、「わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください。」という、とても逆説的な言葉があります。
私たちの生活や人生が新たになることは、過去にあった質のもののようになることなのでしょうか。
ここにおける、昔ということと、新しくなるとは、どういう意味なのか。
逆説的で、考え込ませられる一節です。
ユダヤにおいては、過去と、メシアの来る未来と、二つのイメージの中で常に引き裂かれてきました。
これもまた、聖書の中の声のひとつです。


大略、このような答えだった。
「知恵」を主に箴言の方向から見ていた私にとっては、伝道の書や哀歌についての思考を促していただいて、とてもためになった。
それにしても、文字だけの言葉にするとうまく伝わらないのだけれど、この圧倒的な海のような聖書の知識と知恵はなんなのだろう。


知恵について、また知恵と記憶について、聖書には複数の声つまり考え方や語り方があり、それについて自分が深く考えていくことで、何かかつてはわからなかったものが見えてくるのだろうと思った。


あと、ちょうど講演が終わって、講堂を出て行こうとしたら、マゴネットさんと西南大の神学部の先生も出て来られていて、西南大のその先生が、私の質問をとても考えさせられる良い質問でした、とおっしゃってくださり、恐縮した。
マゴネットさんにもあらためてご挨拶したが、本当に目の優しい徳のある方だなあと感心。


西南のキャンパスの中にはさすがに神学部がある大学だけあって、聖書の植物や花がいろいろ植えてある一角があり、ちょうど百合の花がたくさん美しく咲いていたし、なんとミルトスの花が咲いていた。
ミルトスはイザヤ書に出てくる植物で、日本でイスラエル関連の出版物をたくさん出している会社の社名にもなっており、どんな植物なんだろうと思っていたら、今日見ることができた。
花は、弾けたように丸いのがいっぱい咲いている、ねむの花と若干似た雰囲気のある、不思議な植物だった。


良い一日だった。