繰り返しとそれを避けるためには

聖書の中にはいろんな多様な声があるが、そのうちの一つには、わりと醒めた、永劫回帰のような印象を受ける考え方がある。

「先にあったことは、また後にもある、
先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。 」
(伝道の書 第一章 九節)

ソロモンか、あるいは誰か、知恵を究めた人は、古代においてもこのように思ったのだろう。

たしかに、人生や世の中のことについての思索や考え方は、古代から中世に出尽くし、近代は多少それを新しそうな装いでいろいろ言っただけなのかもしれない。
古代ギリシャ哲学で、だいたい人間の幸せや生き方についてのさまざまな考え方は出尽くし、さらに行き詰まりまで体験し、キリスト教に救いがあるという結論まで出尽くしていたのかもしれない。

新しい真実などはなく、ただ昔見つかった真実をしょっちゅう人類が忘れるだけ。
大切なことはまたそれらを思いだし語り直すことなのかもしれない。

人類の人間性というのも、古代からほとんどあまり変わっておらず、相変わらず人間というのは愚かで短絡的で近視眼的なものかもしれない。
むしろ、資質によっては古代や中世よりも低下していることも多いのかもしれない。

そうであればこそ、あまり新しいものや流行を虚しく追うことより、古代から伝わる叡智をあらためて思い出すことこそ大切なのだと思う。

もし歴史がただの繰り返しから、微妙な違いや差を生み出すことができるとすれば、過去の経験や教訓を忘れずに、少しでもそれらを未来をつくるために生かすことなのだろう。

たぶん、ダビデはサウルの失敗を見て、ああならないようにいろんな工夫をして成功したのだと思う。
家康も、信長や秀吉の失敗を見て、ああならないようにいろんな工夫をして成功したのだろう。
頼朝も、平家の失敗をよく観察していたのだと思う。

戦後の日本も、敗戦の痛切な反省から出発して、それなりに平和で経済的な豊かな国として成功してきた。
しかし、この二十年ぐらい、しばしば同じ失敗を繰り返してきた。
今のアベノミクスは、ばら撒きという点では小渕政権とよく似ているが、どういうわけか多くの人が、自民党支持者だけでなく場合によっては生活の党支持者などの野党支持の人々まで、まるっきりつい最近の小渕政権の時代のことを忘れているようである。

日の下に行われることには大体新しいことはなく、ほとんど同じことの繰り返しとしても、そうならば、せめて繰り返さぬように過去を記憶しておきたいものだ。

また、個々人の人生においても、せめても同じことの堂々めぐりや繰り返しにならぬように、聖書や仏典の智慧を仰いで、少しでも自分のパターンを打ち破って、本当に良い突破の方向に工夫すべきなのだろう。