古代ローマのストア派雑感

最近、あらためて、セネカキケロマルクス・アウレリウスを読んでいて思ったのは、ローマ人ってのは本当にすごいもんだということだ。

その毅然たる精神は、やっぱり、男の中の男、たいしたものだと思う。

おそらく、日本の武士も、よく似たものだったのかもしれない。

古代ローマのストア主義と、日本の武士道は、克己や剛毅という点で、よく似ている気もする。
山鹿素行新井白石などは、よく似通った剛毅さや克己の精神を持っているような気がする。

ただ、日本の武士道と、古代ローマのストア主義の違いは、お国柄の違いのせいかもしれないが、あまり理屈っぽくない日本人と比べて、それなりにレトリックや論理を古代ローマ人の哲学者は大事にしていた、というところがある気がする。

ギリシャ人に比べれば、それでもローマ人はあまり理屈っぽくないとは思うが、きちんと筋の通った思考や明晰さを愛するという志向性はあったと思う。
日本や中国の場合は、明晰な思考というよりは、倫理さえ良いものであれば、哲学的なことは二の次三の次、ということはあった気がする。

あと、仏教はまた別とすれば、日本や中国の儒教的な思惟の場合、あんまり死後のことや魂のことは関心がもたれず、テーマになっていない気がする。
それに対して、ローマやギリシャにおいては、魂の不死は、生き方の前提として非常に大きなウェイトを占めていたように思う。

明晰な論理と魂の不死というテーマにおいて、古代ローマのストア主義と、日本の武士道は、若干異なるかもしれない。

とはいえ、似通った面もあるので、日本人にフィットするということもあるのかもしれない。

あと、古代ローマのストア主義は、宇宙全体の秩序や、全体との関連で、自分自身の立場や役割を考えるところがある。
それに対して、日本の武士道や儒教においては、あんまり宇宙全体のことを考える傾向はないように思う。
日本においては、華厳や法華が、宇宙全体の秩序や全体と個人との関連を考える際のひとつの扉になっていたのだろう。
ただ、わりと日本においては、そのこととストイックな生き方とが必ずしも結びつかず、坊主と武士が切り離される傾向にあったのに対し、古代ローマのストア主義の哲学者においては、宇宙全体の観想や観念と個人の生き方が大きな関連の中で考えられていたということはあるように思う。

そして、これはあまりにもよく言われることで、いささか陳腐なことだけれど、バラバラの個人となってしまい、宇宙全体や社会全体との関連を失ったと言われがちな現代人にとっては、古代ローマストア派哲学の宇宙全体から個人を見つめなおすという視点は、華厳などとともに、生きる意味や役割を見つめなおすきっかけやよすがになることのようにも思う。

というわけで、キケロマルクス・アウレリウスセネカこそ、現代日本人にとってよく読まれるべきものかもしれないし、案外ととてもフィットするものなのかもしれない。
また、ローマの歴史をよく知ってこそ、今の日本の政治的音痴や政治的無能も少しは改善されるのかもしれない。
古代ローマ並みの政治的力量を身につけることができれば、少しは日本の政治的没落もマシになりうるかもしれない。

今更ながらだけれど、この頃、自分の中で古代ローマ熱がひさしぶりに発火しつつある。

ただ、自分の性分としては、なんとなく、ローマよりもエトルリアに心惹かれるし、カルタゴ古代ギリシャにも心惹かれるので、必ずしもローマ贔屓ではないのだけれど、そこらへんもひっくるめて、あれこれローマの古典でも重点的に読んでみようかなぁと思う。