自分の精神をコントロールすること

箴言を読んでいてあらためてなるほどと思うことがあった。


Like a city whose walls are broken through
is a person who lacks self-control.
(Proverbs 25.28)


自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。
箴言 第二十五章 第二十八節 口語訳)


侵略されて城壁の滅びた町。
自分の霊を制しえない人。
箴言 第二十五章 第二十八節 新共同訳)


自分の精神をコントロールできない人間は、
城壁のない打ち壊された町のようなものだ。
箴言 第二十五章 第二十八節 自分訳)


イール・ペルツァー・エン・ホマー・イッシュ・アシェル・エン・マーツァル・レルーホー


なかなか耳に痛い言葉である。


そして、比喩がとても面白いと思う。


自分で自分をコントロールすること。
自己管理。


これができることが、いわば、自分が誰からも侵略されない、立派な城壁や城塞を自分につくるようなもの。


精神のコントロールとは、感情や心のエネルギーのコントロールのことだろうか。
時間管理や計画、体調管理も含まれるのかもしれない。


箴言の面白いところは、神任せにしていればいいというものではなく、きちんと自分の心を統御し、怒りを鎮め、慈しみの心を持つ人こそが、自らの魂を益するということが説かれているところだと思う。
自分の心を何よりも守れということも説かれている。


人はしばしば、誤った意味での「他力本願」といことに陥って、自己コントロールを忘れたり杜撰に行ったり、ひどい場合は放棄してしまうのだろう。


そもそも、その言葉の語源である、浄土真宗の「他力」とは「本願力」のことで、誰か他の人の力を頼るという意味では全くない。


むしろ、加持祈祷や困った時の神頼みをせず、仏の願いを聴きながら、自らの身を慎んで生きるのが浄土真宗の教えだから、全く正反対の意味に世では受け取られていると言っていい。


洋の東西を問わず、本当の宗教というものは、自己コントロールの大切さを説く。
仮に神や天や、あるいは如来といった、そういったものの慈しみを本当に感じ、その願いを思い、その愛にこたえようと思うならば、その人はできる範囲で身を慎み、自らの心を良い方向に育てていくよう努めるものなのだろう。


自らの心を城壁のない打ち壊された町にしてしまうか。
あるいは、整然とよく整理区画され、管理も行き届き、誰の目から見ても美しく、城壁もよく修復整備された町にするか。


それは結局、その人の選択次第なのかもしれない。


箴言の言葉で言えば、「主を畏れること」と、このように「自らの心を自ら制御する」ことは、全く矛盾しないことなのだろう。
むしろ、主を畏れればこそ、そのように努力をするのが、本当の信仰というものなのだと思う。


神や天や、あるいは如来のおはからいに任せるというのは、与えられた境遇や使命を受け入れて引き受けるということであり、自分の態度や心の持ち方への努力や選択を放棄するということでは全くない。
そのことをこの一節には、あらためて教えられた。