箴言を読んでいると、時折、痛烈な響きの言葉がある。
以下の言葉は、その最たるものの一つだと思う。
those who are pure in their own eyes
and yet are not cleansed of their filth;
(Proverbs 30.12)
世には自分の目にみずからを清い者として、
なおその汚れを洗われないものがある。
(箴言 第三十章 第十二節 口語訳)
自分を清いものと見なし
自分の汚物を洗い落とさぬ世代
(箴言 第三十章 第十二節 新共同訳)
自分の目で自分を清らかなものだとみなす世代は、
自らの汚れを洗わない。
(箴言 第三十章 第十二節 自分訳)
ドール・タホール・ベエーナーヴ・ウミツォアトー・ロー・ルハッツ
自分の汚れが見えず、自分を清らかだと思う世代や人々というのは、自分の汚れを洗おうとはしない。
自分の親の世代、あるいは祖父母の世代を責めたてて、自分たちの責任や過ちを直視しない世代というのは、自らの世代の誤りというものはしばしば見えにくいことになってしまうのかもしれない。
あるいは、自分たちの子や孫の世代のことを考えず、彼らにツケを回していても、自らの手が汚れていないと考える世代もそうだろう。
あるいは、自分たちの世代や民族のみ清らかだとし、他の民族を汚れていると考える人々も、決して自らの汚れには気づかず、それを洗おうとはしないことだろう。
この痛烈な箴言のこの一節は、まるで今の日本の私たちの世代のことを言われているように、私には思えてならない。
おそらく、本当に高潔な人や、清潔な人というのは、自らを清らかだとみなすよりは、自らの汚れに敏感な人なのだと思う。
自らの汚れや過ちや責任に鈍感な者は、決して清らかではありえない。
大切なことは、他人のことではなく、自らの汚れを洗うことなのだろう。
それが悔い改めということであり、義であり、真実ということなのだと思う。