恐怖の罠を脱すること

箴言を読んでいると、なるほどーっとうなずくことが多々あるが、以下の言葉は、特にうならされた。


Fear of man will prove to be a snare,
but whoever trusts in the Lord is kept safe.
(Proverbs 29.25)


人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
箴言 第二十九章 第二十五節 口語訳)


人は恐怖の罠にかかる。
主を信頼する者は高い所に置かれる。
箴言 第二十九章 第二十五節 新共同訳)


人は恐怖の罠にかかる。
しかし、主に信頼するものは、保護される。
箴言 第二十九章 第二十五節 自分訳)


ヘルダット・アダム・イテン・モケッシュ・ウヴォテアハ・バドナイ・イェスガヴ


世の中の人の多くは、恐怖という罠に陥ってしまうが、神に信頼する人は安心できるし、きちんと守られる、という意味だろう。


なるほど、と思う。
「恐怖の罠にはまる」という言葉が、とても印象的である。


今の世の中、不安だという人がほとんどだと思う。
安心立命している人など、まずもってめったにいない。


不安だと、どうしてもとげとげしくなったり、誰かを攻撃したくなることが多いのかもしれない。
三一一の後の、当時の首相へのバッシングはいささか異常なものだった。
また、最近は日本においても排外主義が台頭し、マイノリティへのヘイトスピーチが激しくなっているようである。


しかし、恐怖や不安から、誰かを攻撃したとしても、ますます自分自身が不幸になる悪しき原因を自分でつくるばかりだろう。
因果の道理でかえってそれらの人々は自らの身に災いを招き寄せるだけだ。


このことを、恐怖の「罠」と箴言は呼んでいるのだと思う。


一方、神に、仏教的に言えば真理や法則に対して、ゆるぎない信頼や信念を持つ人は、心を安んじて、自分や世の中が幸せになる原因を今つくり続ける。
そして、悪や間違ったことを避けながら生きていく。


こうした人は、長い目で見れば、高く持ち上げられ、保護されるに違いない。
箴言はそう断言している。


大切なことは、恐怖や不安ということ自体が罠だと知ることなのだろう。


大恐慌アメリカで大統領になったF・ルーズベルトが、以下のように演説したのは、有名な話である。


“So first of all let me assert my firm belief that the only thing we have to fear is fear itself ― nameless unreasoning, unjustified terror which paralyzes needed reforms to convert retreat into advance.”


「何にもまして、私は確固たる信念を持って断言します。
私たちが恐れねばならぬ唯一のことは、恐れという感情そのものです。
引き下がった状態を前進に変えるために必要な改革を麻痺させてしまうもの。
この名前のない、非理性的な、なんら正当化できない、この不安な気持ちそれ自体をこそ、私たちは恐れなければならないのです。」


日本のこの二十年を振り返ると、要は、恐怖の罠にかかってきたような気がする。
特に、三一一はひどくなってきているかもしれない。


恐怖の罠を脱し、不安の罠を脱すること。
それこそが、今最も大切なことなのかもしれない。



しかし、そのためには、どうすればいいのだろう。
仏教では、怒りや恐怖の気持ちは、慈悲の心を育てることによって鎮まると教える。
おそらくキリスト教も同じで、イエスの福音を本当に実践し、慈愛の心をもって生きる人は、おのずと「恐怖の罠」を脱するのだと思う。


「恐怖の罠」を脱することは、政治指導者だけではできることではないのだと思う。
もちろんそのようなメッセージを発してくれる政治指導者がいる国は恵まれているだろう。
が、仮にいたとしても、そのメッセージに耳を傾け、自分で実践しないと、一人一人の胸中の不安は払拭されない。
一人一人が自分自身、己の心や生き方を見つめ、怒りや恐怖ではなく、慈悲を心に育て、義を実践することしか、「恐怖の罠」を脱する道はないのだと思う。


ケネディは、国に何かをしてもらうことではなく、国のために何ができるかを心がけよ、と述べた。
私たち一人一人が、今日本のために一番できることは、自分自身が「恐怖の罠」を脱することなのかもしれない。