箴言を読んでいたら、こんな箇所があった。
義と富が対比的に述べられている。
Those who trust in their riches will fall,
but the righteous will thrive like a green leaf.
(Proverbs 11.28)
富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。
(箴言 第十一章 第二十八節 新共同訳)
自らの富に頼る者は倒れるが、
義しい人たちは葉のように繁栄する。
(箴言 第十一章 第二十八節 自分訳)
ボテアハ・ベオシュロー・フー・イポール・ヴェヘアレー・ツァディキーム・イフラーフー
お金や財産を頼りにしていても、そのようなものは儚いもので、神の前に正しい人こそが青々と茂る木々の葉っぱのように繁栄する、と箴言は断言する。
人はともすれば、お金や財産をこそ頼りとするものだし、かくいう私もお金があればと思うことはしょっちゅうだけれど、本当の知恵者というのは、このことを透徹して理解した人なのだろう。
義がなければ、富があっても、長い目で見れば滅んでしまうのだろう。
一方、義があれば、長い目で見れば、その人や国は生き残っていくのかもしれない。
ふと、日本は、富と義と、どちらを大切にしているのだろうかと考えさせられる。
おそらく、戦後の日本は、両方とも大切にしてきたのだと思う。
一方を大切にする人がそれぞれいて、その人たちが混ざり合って社会をつくってきたのだろう。
自民党や経団連というのは富をこそ頼りとする人々であり、昔の社会党や共産党や市民運動というのは、義に大きな関心を寄せる人々だったのだろうと思う。
それで、戦後の一時期までは、世の中全体としてはそれなりにバランスがとれていたのかもしれない。
富も増えて経済大国になり、義を守って平和な国として生きてきた。
しかし、冷戦が終わってかれこれ二十年経つうちに、日本は富もだいぶ目減りしてあまり頼れないものになってきたし、自らの義も何だったのかわからなくなり、ともすれば見失っているのかもしれない。
自民党が最初から義には関心なく富にのみ関心があるという点である意味徹底しているのに対し、民主党の迷走は富にも義にも中途半端なところにあったのかもしれない。
たぶん、人間は生きていく上では、ほどほどの財産や富も必要なのだろう。
しかし、根本は義であることも事実なのだろう。
人間は弱く愚かなものなので、富にのみ汲々とし、義をこそ大切にすべきことを忘れてしまいがちなのかもしれない。
私も、とかくわずかな金銭で頭を悩まし、お金がありさえすれば安心できるものをとしょっちゅう思うが、本当に大切なことは義なのだろう。
聖書における義とは、神との関係において正しくあること、神に義とされることだ。
キリスト教においては、律法を完全に守ることができない人間が、キリストへの信仰によって義とされるという。
日本においても、たとえば江戸時代の広瀬淡窓などは、敬天ということを説き、天に対して正しくあることを説いた。
仏教も、法(ダンマ)において正しくあることが最も大事であり、完全に戒律を実践することができない凡夫は、二種深信によって正定聚になることが浄土教において説かれた。
この二種深信によって正定聚となるということは、キリスト教の信仰によって義とされるということとよく似た構造であることは、しばしば指摘される。
とかく目先の富を求めるよりも、義とされるためにはどうすればいいか、そのことを根源的に考え、自らの姿勢を正すことの方が、本当は大切なのかもしれない。
日ごろ忘れがちで、世間の価値観ではとかく忘れがちなそのことを、古典は時折痛烈に示してくれるのだと思う。
葉のように繁栄する人生を歩みたいものだし、葉のように繁栄する国家社会であって欲しいが、そのためにはやはり、まずは義をこそよくよく求め、見つめるべきなのかもしれない。