イクイアーノやフレデリック・ダグラスらの自伝を読んでいると、よく挫けずに、自由を求め続けたなぁと感嘆させられる。
おそらく、彼らの周りには、もはや生きる望みを失って絶望していった人々はずっと多かったはずである。
もしくは、絶望して自ら死ぬほどではなくても、ただ状況に順応するだけの人はずっと多かったはずである。
それと、もう一つ、とても考えさせられるのは、イクイアーノもダグラスも、あれほどひどい目にあい、ひどい状況をつぶさに見ながら、神の存在を確信しているところだ。
普通、神も仏もあるものかと思いそうだが、かえって深い信仰の境地に達しているようである。
かといって、神に任せて何にもしないかというと全然そうではなく、自らの努力を常に怠らない、セルフメイドマンの典型だと思う。
こうした姿勢には、何かしら非常に多く学ぶことがあるような気がする。
希望を失わず、持ち続けること。
この世の奥深くに人智を超えた大きなはからいがあると信じた上で、自らの努力を怠らず為し続けること。
これは、いわば人生の極意ではないかと思う。
イクイアーノやダグラスに比べれば、自分はいかに恵まれているか。
にもかかわらず、ろくな感謝の心も持たず、少々の不遇に不満をつのらせたり、心が折れかかったりするのは、実に恥ずかしいことだと反省させられる。
ただ、それにしても、神は本当にいるのだろうか。
イクイアーノはさまざまな不思議な体験を語り、その存在を確信していることを自伝で語っているのを読んでいると、そうなのかもしれないという気がしてくる。
神というと場合によっては語弊があるが、要は、この世を貫く法則や理法のようなものがある、ということだろう。
それを擬人化したり象徴的な表現を使う時に、宗教によっては神といい、あるいは如来というのだと思う。
イクイアーノやダグラスが、どん底でも自分は見捨てられていないし、見捨てられたままには終わらないと信じ、神、つまりこの世を貫く道理や、自分を捨ててはおかぬ働きを信じていたのは、人が生き抜く上で非常に大事な智慧や信念ではないかと思う。
私もともすれば、この世に神や仏はいるのかどうか、この世に道理はあるのかと疑わしい気持ちを持つことがあるが、それは私の無明のゆえなのだろう。
やはり何がしかそうしたものの働きがあるということは、繰り返し聴いて、聴きながら生きていきたいと思う。