小林多喜二の命日

小林多喜二を描いた劇「組曲虐殺」の最後のシーン。
井上芳雄が演じる小林多喜二の歌う歌に、本当に胸を打たれて涙が出てくる(T-T)
「あとに続く者を、信じて走れ」





今日は、小林多喜二の命日。
私は別に共産党支持者ではないし、マルクス主義者でもないのだけれど、小林多喜二や川合義虎などの、戦前に若くして命を落とした、命がけで自由や平等のためにがんばった人々の生涯を見ていると、なんというか、この上なくかげがえのない尊いものを見る気がする。


たぶん、彼らは、その時代におけるひとつの抵抗のよりどころとして、共産党マルクス主義だったというだけで、もっと深い根底的な、人間の尊厳や人類への愛情や正義感のために闘っていたように思う。
だからこそ、教条的なイデオロギーとは異なり、後世にまで響くものがあるのだと思う。


ああいう犠牲が二度とないようにしていくのが、後世の人間のせめてもの務めであり、ああいう人々のことを忘れずに時折思い出すのが、後世の人間が自らのためにもとても大切なことなのではないかと思う。


「闇があるから光がある。そして闇から出てきた人こそ、一番本当に光の有難さが分かるんだ」


小林多喜二の言葉だそうだが、胸に響く。


井上ひさしの戯曲の中での小林多喜二のセリフの、


「命あらばまた他日。 元気で行こう。 絶望するな。」


「たがいの生命を大事にしない思想など、思想と呼ぶに価いしません。」


「絶望するには、いい人が多すぎる。 希望を持つには、悪いやつが多すぎる。 なにか綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないものだろうか。 いや、いないことはない。」


「あとに続く者を、信じて走れ」


なども、本当に胸に響く。


小林多喜二は八十年前の今日の日に、過酷な拷問で殺されたが、そんなひどい時代が、つい八十年ぐらい前にはあったということを、忘れてはいけないのだろう。


「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」


憲法の第九十七条にはこの条文がある。
人類の多年にわたる努力の歴史の中には、海外の、たとえばリンカーンフレデリック・ダグラスらの歴史も含まれるだろうし、日本国内で言えば、自由民権運動大正デモクラシーや戦後のさまざまな努力が含まれるだろう。
そして、小林多喜二らの努力も、もちろんその中の大事な貴重な部分なのだと思う。


ちなみに、自民党憲法改正案は、この第九十七条の条文をまるまる削除している。
そんなことで本当に大丈夫なのかと疑問で仕方ない。
人間の世の中というのは、意外に狂いやすいもので、少し歯車が狂うと際限なく残酷なものになりうるということを、小林多喜二らの受難は教えてくれていると思う。


歴史に学ぶ者は賢者であり、歴史に学ばない者は愚者であろう。
小林多喜二らの思いや受難を、後世の私たちは、忘れてはならないのだと思う。