とてつもなく久しぶりに先日、創世記と出エジプト記を読んだ。
私は別にクリスチャンじゃないけれど、この二つは本当面白い。
にしても、ノアが酔っぱらって素っ裸で寝てて、起きた後にカナンを呪ったというエピソードには「?」となった。
聖書はあちこち不可解な記述があるけれど、ここは特に不可解。
箱舟で有名なノアは、箱舟で助かったあと、ある日、ぶどう酒に酔っぱらって眠っていた。
ノアには三人の息子がいて、セム、ハム、ヤフェトといったが、そのうちのハムがノアが素っ裸で眠っているのを発見。
セムとヤフェトに告げたところ、セムとヤフェトはノアの姿を見ないようにしながらそっと衣をかけてあげる。
起きたノアは激怒して、ハムの息子のカナンを呪い、子々孫々、セムとヤフェトの子孫の奴隷になるように、と言った。
実に不可解な記述で、何度読んでもさっぱりわからない。
英語のwikipediaにこの記述について、古代や中世のユダヤ教やキリスト教の学者の解釈がいろいろ列挙してあるところがあった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Curse_of_Ham
それによれば、ノアが意識を失っている間にハムがノアを去勢した、という説と、ハムが意識を失っているノアに男色行為をした、という説があるそうである。
それならば怒るのもわかるが、簡潔過ぎる聖書の記述からは必ずしもそう推測できるわけでもない気がする。
このノアの酔っ払い裸事件が気になってさらに日本語でネットでいろいろ検索してみたら、すごいサイトがあった。
http://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/49409458.html
これによれば、ノアはハムからマンドラゴラを飲まされて意識を失い、場合によっては毒殺されるところだった、ハムは長子権を兄弟をだましてノアから受けたと主張しようとしていた、ノアが裸だったのは祭祀の服をハムがはぎとって己のものとしようとしたから、という。
創世記のわずかな記述から、よくここまで読み取るものだと感心させられるが、なかなか鋭く緻密な分析と推理がなされていてとても面白かった。
これがもし本当ならば、あの不可解な記述は、若干わかるような気もする。
しかし、創世記の記述は簡潔過ぎるので、必ずしもこの説が正しいと十分立証できるわけでもない。
近代の学者によれば、この箇所は、モーゼのカナン征服の正当化のための一節という説があるらしい。
つまり、創世記の次に続くモーゼやヨシュア関連の書では、エジプトから脱出したユダヤ人がカナンの地に辿りつき、そこに住んでいる人々を征服する姿が描かれるが、このノアがカナンを呪う箇所は、このユダヤ人によるカナン征服と、その地の人々の奴隷化の正当化のための箇所なのだという。
それが本当ならば、なんとも恐ろしいことだ。
もしそれが本当ならば、「聖書」って本当に聖なる書物なのか疑問になる。
ちなみに、後世、この箇所は、黒人奴隷制の正当化にも使われた一節でもあるそうだ。
別の神学的な解釈によれば、ハムは権威に対する反逆ということで罪だとされたという。
ハムの子孫からはさらにバベルの塔で有名なニムロデが出ている。
「神は死んだ」ぐらいに思って、権威や神に反逆したがるのが、ハムやカナンの系譜という寓意があるのかもしれない。
ただ、あの創世記の箇所を、そのまま読めば、ノアは酔っぱらった上にいきなり息子に激怒し、孫を呪うというわけで、仏教的に言えば不飲酒戒と不瞋恚戒を破っているとんでもない人、という話になる。
ハムも、別にノアに対していささか敬意が欠けていたかのように読めないわけではないけれど、神に対して反逆的だったのかどうかは必ずしもよくわからない。
解せんなぁと思っていろいろネットで検索していたら、なるほどと思うことが書いてあるサイトがあった。
それによれば、ハムへの呪いはあくまでノアによる呪いであって、神からの呪いではない、ということである。
つまり、人間による呪いなのであくまで相対的なもので、神はむしろハムも含めてノアの子孫はすべて祝福しているとのことで、そう考えると、少し腑に落ちる気がした。
ノアの怒りに何か原因があったかどうかは、正直聖書の記述からだけではよくわからないが、いずれにしろ、せっかく箱舟から救われたあとの人間というのは、ノアもハムもひっくるめて、相も変わらず未熟で不完全だったということだろうか。
ノアの洪水のあと、「わたしはもう二度と人のゆえに土をのろわない。人の心は若い時から悪に傾いているからである。」と神は心の中でつぶやいたらしい。
ノアとハムの不可解な説話も、神から見た場合、両方そうだったということだろうかと思う。
コーランにもノアは登場するけれど、旧約聖書に出てくるハムとカナンとのエピソードは出てこないようだ。
飲酒が御法度のイスラムでは、ノアが酔っぱらって急に怒りだして孫を呪うなど、ありえないエピソードなのかもしれない。
コーランのノアの方が、特に問題はなくすっきりした人物像な気はする。
以上、ノアとハムとカナンの話は、奇妙な話で首をかしげるけれど、ハムやカナンの子孫が奴隷となってセムやヤフェトの子孫に仕えるべきとはなっているものの、一応兄弟ではあるという認識があるのは興味深いと思う。
というか、兄弟を奴隷にしといて、セムやヤフェトの子孫は別に心が痛まなかったんだろうか。
人間同士の決め事や偏見や争いというのは、実に恐ろしい、醜いことかもしれない。
しかし、それはやがて、時が経てば、十分変化していくことなのだろう。
セムとハムとヤフェトのように、仲の悪い三兄弟、あるいは仲が悪くなくてもなんらかの理由で疎遠になった兄弟の話というのは、旧約聖書にしろいろんな神話にしろ、よくある気がする。
考えてみれば、日韓中の三国も、仲の悪い三兄弟みたいなものかもしれない。
カナンの地のハムの子孫たちと、モーゼたちの血みどろの争いは、なんとなく、今のパレスチナとイスラエルの争いも髣髴とさせる。
歴史は繰り返すのかもしれない。
そうだとすれば、このノアとハムとカナンの不可解な記述は、実に現代にも影を落としている神話なのかもしれない。
大洪水のあとの神の心の中のつぶやきまでさかのぼって、はじめて人間同士の呪いや争いも相対化されるのかもしれないが、今後の人類はどうなるのだろう。