新井白石は信長の子孫? 白石の母の出自についての若干の考察


新井白石の自伝『折たく柴の記』を読んでいて、疑問に思ったことがある。
最初の方に書かれてある母の出自や、白石の子どもの頃のエピソードが、どうも極めて不思議なことが多いのだ。


白石の父は、土屋家に仕える家老格の武士だったことが記されており、厳格ながら良い父だったことが簡潔かつ味わい深く描かれ、『折たく柴の記』の前半の魅力となっているのだけれど、


にしても、どうにも腑に落ちないのは、たかが一藩士の子に過ぎない白石への土屋の殿様(土屋利直)のかわいがり方や、周囲の態度である。


土屋利直は、幼い頃の白石をいつも毎日側近くに置いてかわいがったという。


また、陸奥の南部家の殿様が来て、白石を見て、自分の手もとで育てたい、将来は千石取りとして召し抱える、という話を申し出たけれど、土屋利直は断ったという。


白石が七歳の時に、天然痘にかかり、命が危ぶまれるほどの病状になったが、土屋利直の母君がひっきりなしに人をよこし、祈祷にすぐれた僧を呼んで祈祷させ、土屋利直は西洋の「ウンカフル」という高価な薬を用意し、それで治ったという。


普通、いくら家老格の部下の息子だからといって、ここまでするだろうか?


のちに土屋家は、利直が死んだ後、世継ぎが暗愚で断絶となり、白石親子も浪人となるのだけれど、そのときに、かつて織田信雄に仕えていた住倉了仁という人が、金持ちの養子の話を白石に斡旋しようとし、白石の父が自分の一存では決められないと白石に尋ね、白石が断る、というエピソードが出てくる。
これも、当時山のようにいた浪人の中の、わざわざ白石にだけどうしてこうした話が来るのか、不思議なことである。
また、金持ちへの養子の話が、他にもいくつかあったことが記されている。


何よりも、『折たく柴の記』で一番不可解なことは、母方の先祖のことがわからないことである。


白石が母に母方の家系のことを尋ねると、


「人の親として、わが子につつみ隠すことがあろうか。知らせるべきでないことからこそ、はっきり言わないのです。高貴な人でも、卑しい身分のものの腹にやどられることは、むかしもいまも多いのだから、母の父母ことを知らなくても、少しも恥ずかしいことではありません。しかし、おとなになってから、あれこれと考えることもあるだろうから、つまらぬことのようだが、話しましょう。私の先祖のことは、世間で知らぬ人もない『信長記』というものに不滅の名を残しておられるし、また母方の祖父が高麗の城を攻めとられたことも、ある人が話されたのをそれとなく聞いたこともある」


と涙ながらに語ったという。(中公文庫『折たく柴の記』33頁)


かつ、白石の母は、若い頃に、丹羽長重の娘が浅野家に嫁入りした時にそれに仕えて一緒に浅野家に行ったが、丹羽長重の妹の長生院が陸奥の二本松に行った時に、そこに帰って一緒に住んでいたところを、白石の父とめぐりあって結婚したという。
長生院は古田大膳太夫の未亡人で、存命中は、たえず白石の母と交際があったそうだ。


さらに、白石の母は、その兄が書いた手紙をその兄が亡くなった後に人からもらって秘蔵していたが、そこには名前に「坂三」とだけ書いてあったという。


この一連の不可解な記述が、大昔読んだ時もなんだか変だなとちょっと思ったが、今回十数年ぶりにしっかり読み直していて、絶対変だと思い、ピンときて、いろいろ調べてみた。


おそらく、白石の母は、織田家ゆかりの人物ではないかとまず思った。
というのは、織田家の家老格であり、縁戚関係もあった丹羽家とそれだけ深い関わりがあるからである。
また、浪人中に、織田信雄ゆかりの人物が養子先を斡旋しようとしていたからである。
また、何よりも「信長記」に不滅の名を残しているという以上、織田家だと考えるのがまず自然である。


そして、はっきり語れないところを見ると、何か他言をはばかる、謀反や不祥事に関わる人物ではないかと思われた。


さらに、記述から、朝鮮出兵に関わっているらしいということである。


これらを総合すると、


中川秀政という人物が浮かびあがってくる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%94%BF


秀政は信長の娘・鶴姫の夫だが、朝鮮出兵の時に、鷹狩をしているところを朝鮮兵に包囲されて討ち取られるという不覚の死をとげ、武士にあるまじきこととして不名誉の死とされ、本来は断絶のところを、弟が知行を半減されてあとを継いでいる。


白石が1657年生まれ。
延宝六年(1679年)に白石の母は六十三才で亡くなったというから、1616年生まれということになる。
中川秀政は1592年に死去。
中川秀政の娘が白石の母の母だったと考えると、大体年代があうし、話がかみあう。


ちなみに、丹羽長重の母は織田信広(信長の兄)の娘、つまり信長の姪であるし、かつ信長の養女だったという。
かつ、丹羽長重の妻は信長の娘の報恩院である。
したがって、長生院は、信長の姪の娘であり、かつ養女の娘だから義理の孫になるし、兄嫁が信長の娘でもあるというわけである。
丹羽家は織田の家老格の家だったうえに、織田家と深い姻戚関係にあったわけで、織田家が没落したあとに、織田家ゆかりの人物がまず最初に頼りにすることは容易に予測される。


白石の母が中川秀政の孫だったとすれば、祖母が信長の娘だったというわけだから、長生院とも親戚関係となり、中川秀政が死んだ後、丹羽家に仕えていたのもありそうな話である。


また、中川秀政は、武士として恥ずべき不覚の死だったわけで、他聞を憚る事情が当時はあったろうから、あまり白石の母は話したがらなかったのかもしれないと予測できる。


ちなみに、土屋利直の祖父は土屋昌恒であり、武田勝頼の忠臣として最後まで武田家に忠節を尽くした人物。
利直の父・忠直は、武田家滅亡のあと、家康に武田家の忠臣の子として取り立てられた。


通常であれば、武田家を滅ぼした張本人である織田のゆかりの人間を、土屋利直がかわいがるのは歴史の経緯としては不可解に思われるかもしれないが、決してそうではない。
というのは、武田勝頼の妻は信長の姪でかつ信長の養女である。
さらに、勝頼の嫡男はこの信長の養女の子であったわけで、土屋家にとってはまさに織田家は主筋の奥方の実家でもあったわけである。


かつ、『折たく柴の記』にある、白石の母の兄の「坂三」というのが、なんとも不可解だが、これはひょっとしたら、中川家の所領は播磨国三木城だったので、「播磨の国の三木城の城主」という意味の「播三」の省略だったのではないかという気がする。
当時、国名等で、漢字を音が同じものと互換的に使用することはよくあったことだ。
かつ、「兄」のものとして大事に秘蔵していたという手紙だけれど、実は白石の母にとっての父のものだったのではないかと思われる。


ちなみに、長生院は古田大膳太夫の未亡人だったとのことだが、古田大膳太夫は古田重治のことであり、古田重治は茶人で有名な古田織部の甥にあたる。
ちなみに、中川秀政の父の中川清秀の妹、つまり中川秀政の叔母が、古田織部の妻である。


織田・丹羽・中川・古田は血縁としてもいろいろ入り組んだ関係になっていて、極めて近い関係だったことがわかる。


白石の母は、それらに連なっていた人と考えれば、丹羽・織田ゆかりの長生院との親交や、織田信雄に仕えていた人が養子先を斡旋しようとしたことも、よく理解できる。
かつ、土屋利直がかわいがったり、南部の殿様が召し抱えようとしたことも、まあ、わからなくもない。


とここまで考察をしながら、やっぱり不可解な気がしてきた。
仮に、白石の母が、母方の血筋として織田家の血縁に連なっていたとして、そこまで土屋や南部がかわいがるものだろうか。


上記のことは、『折たく柴の記』のかすかな記述から、いろんな資料をかき集めて、推測をしただけのことであり、決定的な証拠はないし、仮にそうだったとしても、なんともやはり不可解なことが多い。


ただ、新井白石の日本人には珍しい合理性や自意識の強さは、織田信長ゆかりの血筋と考えると、なんだか納得するところもある。
「紫石稜稜、電人を射る」と自ら言うほど眼光が鋭かったというのも、信長の子孫ならば、ありそうなことである。


以上は、あくまで私の推測に過ぎず、たぶん今まで誰も言ってなかったことだけれど、どうだろうか。


それにしても、仮説を立証するために、いろいろ戦国時代の情報や資料を収集してあらためて思うのは、なんと一般的にはよく知られていない多くの、薄幸だったり若死にした人物が、戦国・江戸初期にも多いものだろうかということである。
特に、織田家のゆかりの人物たちというのは、実に多く非業の死を遂げている。


たぶん、戦国時代や江戸初期というのは、生きることが不自然で、死ぬことの方が自然という、そういう時代だったのかもしれない。


そんな時代の中で、ややこしい、こみいった背景を持っていたであろう、白石の母と結婚し、寡黙ながら、武士らしい一生を貫いた白石の父というのは、本当に立派な人物だったという気がする。
また、あまり多くは『折たく柴の記』に登場しないけれど、白石の母は、なんとなくつつましく品があって心優しい女性を髣髴とさせる。
あんまり歴史の表には登場しなくても、そういうしっかりと生きた人物たちが、あの時代にも、数多くいて、たまたま白石が自伝に記したから、記録にのこったということなのだろう。