神はいるのだろうか?
とふと今日は考え込んだ。
神はいない、と言い切ると、なんともさびしいような、心もとない気がする。
とはいえ、神はいる、と言い切るには、この世はあまりにも愚かしくみじめなものだと思う。
そもそも、神はいないということが最初から前提ならば、神はいるのだろうかという問いは起らないわけで、この問いの前提には、神にできればいて欲しいと思う気持ちがあるのかもしれない。
私はいまは仏教徒だけど、振り返ると仏典を読むよりも前に聖書やコーランの方を読んだことがあった。
ずっと昔は、仏典はいまいちよくわからないが、聖書は面白いと思ったものだった。
そのせいか、自分のどこかに、一神教的なところがどこかしらあるような気がたまにすることがある。
要するに、何かしら、神のようなものがあって欲しい、もしそんな存在もないとすれば、この世はいったい生きるに値するのだろうか、あまりにも不条理で救いがないのではないか、という気がすることがある。
しかし、神がいるというには、この世はあまりにも残酷で不条理で不親切でバカバカしいので、神がいるという気もしない。
人間の側の願望を抜きにしてみるならば、たぶん、何かしら世界を主宰する人格を持った神のようなものはいないのだろう。
いるとすれば、せいぜい限定的な力を持った、あまりさほど大きな力のない神々か、あるいは非人格的な法則としての神あるいは天のようなものがあるだけなのだろうと思う。
デカルトや福沢諭吉は、どうも非人格的な、法則としての神や天はいると確固として信じていたようだ。
だが、彼らはあんまり人格的な、祈りに呼応するような神には、そもそも無関心だったようでもある。
たぶん、それが正しい態度なのだろう。
しかし、非人格的な、法則としての神や天、つまり理神論というのは、なんともはやそれはそれで物足りない、索漠としたもののような気もする。
そこで、単なる機械的な法則ではない、全体と個が生き生きとした関係に結ばれた総合的な生命みたいなものを考えるのが、華厳経や、昨今流行りのトランスパーソナル心理学というものなのかもしれない。
しかし、あくまでやはり個々人が自分で人生を形作っていくしかなく、全体を観照するだけでは結局社会も人生もあまり変わらず、一時的な逃避や自己満足に陥ってしまう傾向も、そうした全体の観照という方向性にはともすればつきまとうような気もする。
結局、神はいるかどうかよくわからないが、ことさら否定もせず、ことさら狂信的に肯定を断言もせず、いてくれたらいいなぁと思いつつも、あまり神に頼らずに、人間としての誠を尽くして、自らの人生にしろ社会にしろ、できる範囲で自分や自分たちで形作っていくしかないのかもしれない。
この世は神がいるとすれば、そうは思えないほどあまりにも不条理で無意味で残酷な側面がある。
だが、この世に神がいないとすれば、そうは思えないほどあまりにも整合的で美しく秩序だった奇跡的な面もある。
何事も速断せず、人は人の務めをなしていくしかないのだろう。
にしても、もしこの世に神がいるとすれば、いったいこれから先、日本をどうしようと思っているのだろう。
民心は天心、と昔の人は言ったそうだが、とても民心が神とは私には思えない。
むしろ、盲目的な、実に愚かな方向に、自ら突き進みつつあるようである。
神がいるとして、いずれにしろ、あまり日本の世論には神は無関係だし、影響も力もないのだろう。
とはいえ、個々人がどうにかするには、あまりにもどうしようもない奔流や洪水のようなものなのだろう。
神ではないが、個々の人にはどうしようもないもの。
しかし、天災ではないもの。
それが、世論という、人の領域における厄介なものなのかもしれない。