現代語私訳 善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第十六 十七 十八節
「いつも阿弥陀如来や諸仏諸菩薩に護られる縁」
第十六節
また、いつも阿弥陀如来や諸仏諸菩薩に護られる縁(護念増上縁)とは、観無量寿経の中の定善第十二観の普想観(浄土の荘厳についてあまねく観想すること)中に説かれているようなことです。
「もしもある人が、あらゆる時や場所において、日夜に真心をこめて阿弥陀如来の浄土における、阿弥陀如来の御身体と西方浄土の二つの荘厳を観想するならば、それらがはっきりと見えたら、あるいは見えなくても、阿弥陀如来は無数の化仏をつくり、観音菩薩や勢至菩薩もまた無数の化身となって、いつもこの念仏者の所に来て至っておられます。」
これが、この現在の人生においていつも阿弥陀如来や諸仏諸菩薩に護られる縁(現生護念増上縁)です。
また、観無量寿経には、以下のような意味の文章があります。
「もしある人が、真心をこめて阿弥陀如来と観音菩薩・勢至菩薩を念じるならば、観音菩薩と勢至菩薩はいつもその人のためにすぐれた道に導く良き友となり、影が形につき従うように、その人の身を離れず護ります。」と。
これも、この現在においていつも人生で阿弥陀如来や諸仏諸菩薩に護られる縁(現生護念増上縁)です。
また、観無量寿経の定善第九観の真身観には、このような意味のことが書かれています。
「阿弥陀如来は金色の御身体です。白毫の光明はあまねく十方のあらゆる方角の生きとし生けるものを照らしています。身体の毛孔から放たれる光明もあまねく生きとし生けるものを照らしています。頭部から放たれる丸い光もまたあまねく生きとし生けるものを照らしています。八万四千の相好(身体の特徴)等から放たれる光もまた、あまねく生きとし生けるものを照らしています。また、以上述べたように御身体の相(特徴)等から放たれる光は、それぞれあまねく十方のあらゆる方角の世界を照らしていますが、ただ専ら阿弥陀仏を念じる人々のみを照らしており、阿弥陀如来の摂取の光明はいつもその人を照らし、おさめとって守り、決して捨てません。」と。
大体、阿弥陀如来を念じる以外の雑行を行う人は、阿弥陀如来はすべて照らしておさめとるということは論じられていません。
これも、この現在においていつも人生で阿弥陀如来や諸仏諸菩薩に護られる縁(現生護念増上縁)です。
第十七節
また、十往生経には、このような意味のことが説かれています。
「釈尊は、山海慧菩薩とアナンダ尊者におっしゃいました。「もしある人が、専ら西方の阿弥陀如来を念じて往生を願うならば、私は今から先、いつも二十五菩薩(観世音・大勢至・薬王・薬上・普賢・法自在王・陀羅尼・白象王・虚空蔵・宝蔵・徳蔵・金蔵・光明王・金剛蔵・山海慧・華厳・日照王・月光王・衆宝王・三昧王・師子吼・定自在王・大威徳・大自在王・無辺身の二十五菩薩)にその人を影がその身から離れないように寄り添わせ、守らせて、悪い鬼神がその人を悩ませ心を乱すことがないようにし、日夜いつも安穏に過ごすことができるようにさせます。」」と。これも、この現在においていつも人生で阿弥陀如来や諸仏諸菩薩に護られる縁(現生護念増上縁)です。
第十八節
また、阿弥陀経にこのような意味のことが説かれています。
「もし、ある男性や女性が、七日七夜あるいは一生を尽くして、一心に専ら阿弥陀如来を念じて往生を願えば、いつも東西南北上下の六方のガンジス河の砂の数ほどの仏たちが、ともにその人のところにやって来て守り心にかけてくださいます。なので、さまざまな仏たちが守り心にかけてくださるお経(護念経)と呼ばれます。」と。
さまざまな仏たちが守り心にかけてくださるお経(護念経)という意味は、また同時に、さまざまな悪い鬼神たちが危害を加えようとする手がかりが得られないようにし、不慮の病や不慮の死や、突然の災難があるようなことがなく、あらゆる災いや妨げが自然に消え去ります。真心をこめて念仏しない人は除きます。
これも、この現在においていつも人生で阿弥陀如来や諸仏諸菩薩に護られる縁(現生護念増上縁)です。