現代語私訳 善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第三節

現代語私訳 善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第三節




また、念仏者は、もし坐って観想しようとするならば、まずは必ず結跏趺坐すべきです。


左の足を右の腿(もも)の上に、右の足を左の腿(もも)の上に置いて安定したバランスをとりなさい。右の手を左の手のひらの中に置いて、両方の親指を合わせなさい。
次に、姿勢を正し、正坐して、口を閉じ、目を閉じなさい。眼は、開くようで開けず、完全につぶるようでつぶらないようしなさい。


そして、心の眼によって、まず阿弥陀如来の頭頂の髪を束ねて結んだ髪型(螺髻(らほつ))から観察しなさい。
頭皮は金色で、髪は鮮やかな明るい藍色です。一つの髪は一つの螺(うず)を巻いて頭の上にあります。
頭の骨は雪のように白い色で、内側も外側も明らかに透きとおっています。
脳は水晶のような色です。


次に、脳に十四の脈があります。ひとつひとつの脈に十四の光の道筋があります。髪の毛根から光が出て、螺(うず)を巻いている髪の先まで光がめぐり、七回めぐってから光が再び還って毛孔に入っていると想い描きなさい。


次に、今述べた光が二つの眉毛の毛根の孔から出て、他のところに光が向かうと想い描きなさい。


次に、額は広く平らかでまっすぐである相(すがた)を想い描きなさい。
次に、眉は高く、長い相(すがた)で、三日月のようであることを想い描きなさい。


次に、眉間の白毫の相を想い描きなさい。白毫は、眉間に巻かれており、白い毛で、内側は空洞で外に毛が巻き上がっていて、金色の光が出ています。光は、毛先から出てただちに阿弥陀如来御自身を照らしておられます。


『観仏三昧経』には以下のような意味のことが説かれています。
「もし、ある人が、ほんのわずかの間でも、如来の白毫の相を観想するならば、はっきりと見えるか、あるいははっきりと見えなくても、九十六億ナユタ(ナユタは十の六十乗かそれ以上の単位)の、ガンジス河の砂の数ほどのはかりしれない劫の長い長い間、迷いの生死の輪廻を繰り返さなければならない重い罪業を除き去ります。」と。


常にこのことを想い描けば、大変重い煩悩の障りを除き、罪を滅します。
また、はかりしれない功徳を得て、さまざまな如来たちが喜んでくださいます。


次に、二つの眼は、広く長く、黒目と白目の部分がはっきりと明らかに分かれ、その光明がくまなく照らしておられると想い描きなさい。


次に、鼻は長く高く真っ直ぐであり、あたかも金の延べ棒のようだと想い描きなさい。


次に、顔は円満で言葉ではとても言いあらわせない尊さであると想い描きなさい。


次に、耳たぶは垂れ下がっていて、耳の穴には七本の毛があり、光がその毛の中から出て、あまねく阿弥陀如来の御身体を照らしていると想い描きなさい。


次に、唇の色は美しい赤で、しっとりとつやがあり、光明を放っていると想い描きなさい。


次に、歯は白く、歯並びが良くて隙間なく並び、その白さは白瑪瑙のようで、内も外も透き通っていると想い描きなさい。


次に、舌は、薄く広く長く、柔軟であると想い描きなさい。舌の根もとには二つの道があり、唾液が注いで咽喉から入ると、ただちに心の中心に入ります。


阿弥陀如来の心臓は、赤い蓮華のようです。開くようで開かず、閉じるようで閉じません。八万四千の花びらがあり、花びらと花びらがお互いに重なりあっています。
それぞれの花びらには八万四千の脈があります。それぞれの脈には、八万四千の光があります。それぞれの光は、百の宝石でできた蓮の花となっています。それぞれの蓮の花の上に、一体ずつ十地の菩薩がおられます。菩薩の御身体はみな金色です。手にお香と花を持ち、心の中心を供養しており、口をそろえて心の中心を讃歎し歌っています。


念仏者がこの観想をする時、罪業の障りは除かれ滅して、はかりしれない功徳を得て、さまざまな如来や菩薩たちが歓喜し、天の神々も鬼神たちも歓喜します。


また、心の中心から上に向かって、喉の円かな相と、両肩の円かな相を想い描きなさい。
次に、両肘がまっすぐで円かな相を想い描きなさい。
次に、両方の手のひらは円満で、千輻輪の相(千の放射状の車輪の輻(や)の相)があります。十本の指は縦に長く、指の間には水かきがあり、赤銅色をしている相(すがた)を想い描きなさい。


また、心の中心から上に向かい、次に阿弥陀如来の胸の平らかで円満な相(すがた)を想い描きなさい。吉祥の印である卍の字が胸に明らかです。


次に、腹は平らかで出ていない相(すがた)を想い描きなさい。
次に、臍(へそ)は丸く、その孔(あな)が深い相を想い描きなさい。光明が臍の内と外を常に照らしています。


次に、陰蔵の相(男性器が隠れてること)の相を想い描きなさい。平らかで円満で、十五夜の満月のようであり、また腹や背中のように平らかで異なったことがありません。
み仏は『観仏三昧経』の中で、以下のような意味のことを述べています。
「もし男性や女性で、異性への欲望が多い者は、如来の陰蔵の相を想い描けば、欲の心が止まり、罪業の障りが除かれ滅して、はかりしれない功徳を得て、さまざまな如来歓喜し、天の神々や鬼神たちが好意を持って陰ながら守ってくれるようになり、長生きし幸せでずっと病気の苦しみもありません。」と。


次に、両足の腿(もも)、膝、膝の骨が円満であることを想い描きなさい。


次に、両足の脛(すね)が鹿の王のふくらはぎのようであると想い描きなさい。


次に、踵(かかと)は象の王の鼻のようだと想い描きなさい。


次に、足の甲の高さは、亀の王の背中のようだと想い描きなさい。


次に、足の十本の指は長く、指の間には水かきがあり、赤銅色であると想い描きなさい。


次に、阿弥陀如来が結跏趺坐をされている相(すがた)を想い描きなさい。
左の足を右の腿(もも)の上に置き、右の足を左の腿の上に置いて、バランスをとり、安らかにしておられると。
次に、両足の裏は平らかで、千輻輪の相があり、車輪の輻(や)が備わってあり、そのすべてに光明があって、あまねく十方のあらゆる方角の国々を照らしていると想い描きなさい。


頭のてっぺんから足の裏の千輻輪の相に至るまでを想い描くことを、「十分に阿弥陀如来の御身体の荘厳功徳を観想すること」と呼びます。
この観想を「順観」と呼びます。