現代語私訳 善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第十節 第十一節

現代語私訳 善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第十節


第十節 


昼と夜に、あるいは一日三回、もしくは六回、さまざまな仏、あらゆる聖なる方々、天の神々や地獄の閻魔大王たち、あらゆる業の報いとして生まれ変わっていく世界の中のそれらの方々に、この人生において生れてからの身体・言葉・心でつくってきたさまざまな罪を告白し懺悔しなさい。
それらの事を、真実に懺悔したならば、仏法に従って念仏しなさい。
観想や念仏によって見えた世界や境地は、簡単に人に説いてはなりません。
善いものであったならば自分自身が知れば良いことであり、悪いものであったならば懺悔しなさい。
酒や肉や、韮 、葱 、にんにく、らっきょう、はじかみなどの強いにおいのある食べ物は、誓願して手に取らず、口に入れないようにしなさい。
もしこの言葉に違背したならば、身体や口の中に悪い腫物ができていいと誓願しなさい。
もしくは、阿弥陀経を十万回読誦することを満たすことを願いなさい。
毎日念仏を一万回、阿弥陀経を読誦することが毎日十五回、あるいは二十回・三十回、力の程度にまかせて行うべきです。
浄土に往生することを誓い、阿弥陀如来が摂取して受けとめてくださることを願いなさい。



「臨終における作法」


第十一節


また、念仏者は、病気や、病気でなくても命が終わろうとする時は、専ら上記の念仏三昧の方法に従って、身体や心を正しく持ち、顔を西方に向けて、心も阿弥陀如来の観想に専念して、心と言葉と重なりながら一声一声絶えることなく、往生が決定したことを想い、蓮の花の台(うてな)に乗って浄土の聖なる方々が来て迎え導いてくれるということを想いなさい。
臨終の床の病気の人が、この光景を見たならば、看病してくれている人に対してこのことを説きなさい。
このことを説くのを聴いたならば、その話のとおりに記録しなさい。
また、病気の人がもし話すことができない場合は、看病している人は必ず何度か病気の人に、どのような光景が見えるかと問いなさい。
もし罪による様子を説いたならば、傍らにいて看病する人はそのために念仏してあげ、その人が懺悔することを助けて罪が滅するようにしてあげなさい。
もし罪を滅することができたならば、蓮の花に乗って浄土の聖なる方々が、念仏に応えて目の前に現れてくださることでしょう。
先に述べたように、書きとどめるべきです。
また、念仏者は、友人や家族親戚が来て看病してくれる場合、酒や肉や韮 、葱 、にんにく、らっきょう、はじかみなどの強いにおいのある食べ物を食べた人がいないようにしなさい。
もしいたならば、必ず病気の人の側に来ないようにしなさい。
そうしない場合、正念を失い、心が混乱し、病気の人が狂死して地獄・餓鬼・畜生に堕ちるかもしれません。
願わくば、念仏者たちは、よく自分自身このことに注意して、み仏の教えを捧げ持ち、同様に仏に遇う(見仏の)因縁をつくりなさい。
以上、念仏の道場に入るための方法、および臨終に看病する人のための方法について述べました。