テーラワーダにおける信仰の領域の自覚の有無について (某所での議論のメモ)

テーラワーダ仏教(初期仏教)にも、凡夫にとっては信じるしかない領域があると思う。
もちろん悟れば自分でわかるのかもしれないが、過去六仏などは、見ることも科学的に実証することも凡夫にはできない。
なので、凡夫にとっては信じるしかないことである。


そうであるのに、「阿弥陀如来は科学的に実証できない信仰なので妄想だ、信仰は捨て去るべきだ」、というのはおかしい意見だと思う。


せいぜい、「阿弥陀仏は文献学的に後世に付け足された可能性が高いので、自分はいないのではないかと思う」という表現にとどめるのが、初期仏教の見地からしても正しい立場と思う。


仮に、「阿弥陀如来は科学的に実証できない信仰なので妄想だ、信仰は捨て去るべきだ」という立場をとるならば、同じく科学的に実証できない過去六仏も、同様になるだろう。


もちろん、過去六仏は最古のテキストの中にあるので、後世の加上である阿弥陀仏とは違って信用できる、という立場をとるのは、その人の自由である。


しかし、その場合は、やはり科学的な実証(理性)ではなく、一種の信仰に基づいていることは明確に自覚すべきだ。


仮に仏典最古のテキストに載っているとしても、べつに仏教を信じていない人からすれば、過去六仏は科学的な根拠のないことであり、人によっては単なるおとぎ話で、否定すべき迷信と考える人もいるかもしれない。


「共にこれ凡夫のみ」という言葉が聖徳太子の十七条憲法の中にある。
自らが必ずしも理性だけにもとづかない、信仰の領域も持っている凡夫だという自覚を持たず、他の人々の信仰を一概に否定するならば、初期仏教の団体の中にいる人々の独善性に疑問を持つ人も多いのではなかろうか。