福田歓一 「近代の政治思想」


ひさしぶりに読み直してみたら、とても面白かった。


暴力装置」という言葉は最近、仙谷官房長官の発言でとみに注目を浴びていたけれど、本書はその分析から叙述を説き起こしていて、四十年前に出された本にもかかわらず、あらためてとても新鮮だった。


著者が言うには、軍隊と言うのは結局は思想によって構成されている。
なぜならば、どんなに下っ端の兵隊も、年寄りの司令官よりは腕力に強い若者であれば、物理的には十分に対抗できるわけであり、どんなに「暴力装置」などと物理的手段のように思われていても、実際は要員が組織としての規律に服するかどうか、受領したメッセージ通り行動するかどうか、その軍隊を一つの組織として成り立たせている思想がなければ成り立たないからである。


そのように、国家というものも、実は自然に与えられたものではなく、人間が構成しているもの、なんらかの思想的契機によって、人間の能力によって構成されているのが国家であり政治社会である。


そのように説き起こし、その政治社会が人間による構成の産物だということについて最も徹底した自覚が行われたのが近代ヨーロッパの政治思想だったことを指摘し、国家や社会が「自然」としてなんら疑いも自覚もなく考えられて人々がその中に埋没していた中世から、いかにして自覚的に人間や社会が認識され、理論的に構成する営みが行われたかを歴史を辿ってとてもわかりやすく説き明かしてある。


さらに、その理論的な到達点として、ホッブズ・ロック・ルソーの三名についてスポットを当ててある。


「社会が自然のように人間に与えられたものではなくて、人間のつくりあげた組織であり、したがって人間の必要をみたすようにつくることができる。」
(149頁)


「社会を与えられたものと見ないで、人間のつくりあげる一つの文化としてとらえ」る。
(152頁)


「権力の物理性の分解 …(略)… 権力の暴力的契機がどんなに物理的に見えても、なお思想に依存する」
(169頁)


「政治社会を人間にまで還元すること、人間のどのような能力が政治社会を可能にするかを問うこと」
(173頁)


などなどのメッセージは、四十年の時を超えて、今もとても新鮮な問題意識だと思う。


民主党がせっかく政権交代を果たしたのに、いまいち政治力に乏しいのは、政治における思想的契機の重要性をあまり理解せず、言葉を発信する作業を怠り、十分な論理や思想を持たず深めないできたことにも一因があるように思えてきた。


また、庶民の側も、ともすれば政治をあまり自分に関係のない現象ととらえて、自分たちが構成するものだという意識が、かつて全く政権交代がない時代にもあったかもしれないし、政権交代実現後の今もいまもって根強く持っているのかもしれない。


政治における思想的契機の重要性と、人間がいかに自覚的に社会をとらえ、社会を自覚的に構成するかということを政治思想史の流れの中で明晰にわかりやすく説き明かした本書は、今も本当に鮮烈な、できれば繰り返し多くの人に読まれるべき名著だと思う。