荀子

荀子 (中国の思想)

荀子 (中国の思想)

この本は、「荀子」を達意の現代語訳でよみがえらせてあり、とても面白い。

人の天性は悪。
善なる性質は人為の所産。
そのまま成長するとろくなことにならない。
ゆえに、指導者と法による指導、礼・義による教化が必要。

荀子の主張は極めて明快で、リアルだ。

荀子は、「天」を意志のない法則だと理解し、人はその法則に従って努力すれば成功し、法則に外れて行えば失敗すると説き(「天論」篇)、客観的法則の把握と人為の努力の大事さを説いた。
その発想はとてもリアルで、なんだか西欧思想を聞くようである。

偽善や呪術を痛烈に批判し、リアルな認識の上に立った「礼」(マナー)と「法」の重視、それによる秩序の樹立、人間の人為的努力によって生産力を挙げて国家を富ませよく治めようとする荀子の思想は、戦国時代の中国の混乱や庶民の塗炭の苦しみをなんとかしたいという痛切な思いに駆られて説かれたものだったのだろう。

荀子性悪説として有名だが、荀子もべつに人の性質は悪だからどうしようもないと言っているわけではない。
むしろ、そうだからこそしっかり努力して学ぶことが必要だと述べているわけで、学び修養した人が自律的な倫理を確立して自由な状態に達する「徳操」の状態こそが人間の理想だと説いていた。

「塗(みち)の人ももって禹たるべし」

つまり、どんな凡夫でも努力すれば聖人になれる、というのが荀子のスタンスだった。

「ゆえに蹞歩を積まずば、以って千里に至るなく、小流を積まずば、以て江海を成すことなし。
騏驥も一躍にして、十歩なること能わず、駑馬も十駕せば、またこれに及ぶ。
功は舎めざるに在り。」
(「勧学」篇)

絶えざる努力によって、人間は何事もなせるという認識と思想だった。

天を怨むのは筋違いであり、天は法則性をもって運行している。
その法則に従うか否かが人間の吉凶を決める。

君子は人間の能力を信頼し、天に頼ろうとしない。
小人は人間の能力を信頼せず、天に頼ろうとする。

そう言い切る荀子ほど、人間の能力を信頼した人は古代においてもあんまりいなかったのかもしれない。

そのために、人間は言語を正しく使い、詭弁に惑わされないように言語を正しく認識すべきだという「正名」篇や、

人間は物事の一面に惑わされ、全体を把握することができず、好悪や広狭の一方・一面にとらわれるので迷う、ゆえになるべくそうしたとらわれから自由に物事を正しく認識する努力をしなければならないという「解蔽」篇の思想が説かれた。

「解蔽」篇は、ベーコンのイドラ論を彷彿とさせる、東洋には珍しい議論だと思う。

「正名」篇の後半に論じられる欲望についての議論も面白かった。
荀子が言うには、欲望は決してなくならず、欲望をなくすことを目指す思想は無駄であり、人が欲望を抑えるのは条理・道にかなった判断(理性を持った心の働き)による、したがって、道にかなった欲望はどんどん伸ばせばいい、それは決して自分や社会を害さない、また、道にそむいた欲望なら、きっぱりと捨てるのが良い、それは自分も社会も害す、と説く。
アダム・スミスを彷彿とさせる議論で、とても興味深い。

非十二子篇の、

「君子は能く貴ぶべきを為すも、人をして必ずおのれを貴ばしむること能わず。
よく信ずべきをなすも、人をして必ずおのれを信ぜしむること能わず。
よく用うべきを為すも、人をして必ずおのれを用いしむること能わず。
故に君主は修まらざるを恥じて、汙さるるを恥じず。
信ならざるを恥じて、信ぜられざるを恥じず。
よくせざるを恥じて、用いられざるを恥じず。
ここをもって誉れに誘われず、誹りに恐れず、道にしたがいて行い、端然とおのれを正し、者に傾側せられず。
それこれをまことの君子と謂う。」

という言葉や、

儒効篇の、

「その言、類あり、その行、礼あり、その事を挙げて悔いなく、その険を持し変に応じてつぶさに当たる。
時とともに遷徙し、世とともに偃仰し、千挙万変するも、その道一なり。
これ大儒の稽なり。」

(その言葉は法にかない、その行動は礼にかなっている。後で悔やむような行為はしない。危機や事変に直面すれば、つぎつぎに適切な手をうつ。時の流れ、世の移り変わりに従って、さまざまな対応を見せるが、原則をはずれることはない。これが大学者というものだ。)

という言葉も、とても感銘深いものだった。

後世の中国では、孟子の方が主流になり、荀子はあまり顧みられなかったようだが、思うに孟子よりは荀子の方がよほど現実に即していて、参考になり触発されるところが多いように思う。
日本の思想家では、荻生徂徠福沢諭吉がとても荀子の思想に似ていると思う。
荀子こそ、近代においても生きうる、生かしうる、東洋古代の最も偉大な先駆的思想家かもしれない。