墨子

墨子 (中国の思想)

墨子 (中国の思想)


本書は、墨子のエッセンスを達意の現代語訳とともにわかりやすく紹介してくれている。
時空を超えた墨子の思想の新鮮さには、本当に鮮烈な感動を覚える。

私が特に感動したのは、墨家の士は、困難を進んで引き受け、志を貫き、人が知らなくてもなんとも思わない、それは「彼に自信あればなり」(彼有自信也)だからだと言い切る、「親士」篇のことばだった。

「彼に自信あればなり」、
いいことばだと思う。

墨子は、自らの道に絶対の自信があり、自分の人生と生き方に安んじていたのだろう。

その理由は、「万事、義より貴きはなし」と「義」を常に重んじて貫いて生きた、その生きざまから生まれるものだったと思う。

墨子の掲げる義の中心である「兼愛」説は、字面の知識としては誰でも知っている博愛の教えだけれど、墨子を直接読むと、決して単なる理想論ではない、すごい迫力を感じる。

墨子は、兼愛の反対として、ふだん人が持っている差別相対的な愛を「別愛」と呼ぶ。
墨子には、別愛では結局人間には救いはなく、問題しか生じない、別愛は自我執着に汚れたものだという徹底した認識がある。
そうであればこそ、墨子は兼愛を説いた。
また、人が心の底では兼愛をこそ求めていることを、巧みな説き方で論じた。

儒教のような、身近な人間から出発する愛情や倫理の方が、一見現実的にも見えるが、墨子には儒家にはない、人間の根源への凝視と、それを突破する迫力があると思う。

また、墨子の兼愛は、決して空理空論ではなく、国家公共の利益を積極的に求める、実際的で活気ある思想だった。

「仁人の事は、必ず務めて天下の利を起し、天下の害を除かんことを求め、まさにもって天下に法たらんとす。」

そして、墨子は天下の利として、国家社会を豊かにすること(国家之富)、人口を増やすこと(人民之衆)、秩序や治安を正し維持すること(刑政之治)を求め図ることを説いた。

そのために、縁故よりも能力による人材登用や、勤倹節約の大事さ、そのほかのさまざまな方策を説いている。
科学技術にも精通していたようで、ずいぶんと科学技術についても論じているようだ。

そして、人の生き方として、宿命論こそが諸悪の根源だと指摘し、宿命論を排して、人の人生も国家社会の良し悪しも、人間の努力や行為によるということを力説している。(非命論)

こうしてみると、とても古代中国とは思えない、現代人にも新鮮な感動を呼び起こす思想と思う。

さらに、墨子の特徴としては、このような兼愛や天下の利のために、あらゆる侵略戦争に反対する「非攻」の思想がある。

墨子の「非攻」論の面白いところは、決して空想的な平和主義ではなく、侵略戦争に反対するために非常にリアルな戦術論や軍事論を具備していたところで、実際に当時いろんな小国のために、弟子を引き連れて戦術や科学技術や外交を駆使して、大国の侵略を打ち破り、侵略戦争を打倒するためのあらゆる努力を墨家集団が行っていたことが、この墨子の記述からも窺われる。

日本の戦後の平和主義の多くは、墨子にはあまり似ておらず、諸子百家でいえば尹文子にむしろ似ているものかもしれない。
本当に侵略戦争に反対しようとすれば、墨子のような自主防衛や反暴力戦闘論が必要なような気もする。
その点で、墨子こそ現代日本に最も読まれるべきものかもしれない。

そういえば、小泉元首相が以前イラクの問題に関連して墨子を引用していたが、その他の基準や立場に立てばともかくとして、小泉元首相はあんまり墨子の見地からは、特にイラク戦争への言動では、良くは言われないのではないか。
墨子が今の世にいれば、墨子の中に登場する弟子の勝綽と同じように小泉さんを見たような気がする。

そうこう考えると、墨子は非常に現代性のある、現代を生きる上でいろんな示唆やインパクトに富む本かもしれない。

秦の天下統一後、おそらく過酷な弾圧を受けたらしく、墨家集団は忽然と歴史から姿を消し、墨子は長い間忘れられた思想家で、やっと清代に二千年以上経ってから再び読まれるようになったという。

日本でも、石川三四郎などが自分の思想の系譜上の源流と仰いだ例はあるものの、墨子はいまもってまだまだこれから読まれるべき、これからこそ読まれるべき思想家なのかもしれない。

「力ある者は疾くもって人を助け、財ある者は勉めてもって人に分かち、道ある者は勧めてもって人に教えよ。」

この墨子の言葉は、現代の我々の胸にも、とても響くもののある、これからこそ大事な響きがあるように思う。