松下竜一 「狼煙を見よ」

松下竜一 その仕事〈22〉狼煙を見よ

松下竜一 その仕事〈22〉狼煙を見よ


1974年に起きた三菱重工爆破事件の犯人・大道寺将司が主人公のノンフィクション小説。

三菱重工爆破事件については、私はこの小説を読むまで、ほとんど詳しいことは知らなかった。

この本で、はじめて詳しく知る大道寺将司ら、「狼」の人たちの生い立ちや経歴や生き様は、とても意外だった。

企業爆破というテロ行為自体は許されないとしても、彼らのそこに至るまでのいろんな経緯や思いを読んでいくと、それほど極悪人とはぜんぜん思われなかった。
むしろ非常に真摯で純粋な、「なんて良い若者たちだろう」という思いを抱かざるを得ないものがあった。

大道寺将司らは、一貫して、常に弱い立場の人々や社会的な不条理に苦しんでいる人々の立場に立とうとし、世の矛盾や欺瞞に鋭い目を向けて、なんとかそれを正したいと、少年の頃から思っていたらしい。
ベトナム戦争に憤り、釜ヶ崎や山谷に実際に潜り込んで働き、ノンセクトの立場から既成のセクトとは距離を置いて学生運動の渦中に飛び込み、多くのデモに命がけで参加し、全共闘運動が終息していく中で、なんとか新たな活路を開こうとしたそうである。

そうしたことを知るにつれて、なんとも悲しい、人生というのは難しいなあとあらためて思った。
大道寺将司らは、たしかにやったことは良くなかったと思うし、その責任は問われるべきだろうが、彼らは本当に単なる悪人なのか、彼らをそこまで追いやった当時の時代や社会のあり方やそれまでの歴史は、本当に問われなくていいのか、そもそもこの世の善悪ってかなりデタラメなものじゃないか、
そんなことを考えさせられた。

三菱重工爆破事件も、まさかあれほど多くの死傷者が出るとは、当初少しも思っておらず、いろんな手違いや勘違いによって、結果として多くの死傷者が出る事件になってしまったらしい。

彼らに間違いがあったとすれば、私は以下の二点が大きな原因だったと思う。

ひとつは、仮に人を殺傷するつもりが本当はなかったとしても、爆弾という強力な武器を使用し、暴力闘争を手段に選ぶのは、動機がどれほど純粋であったとしても、やはり重大な問題があったのではなかろうかと思うことだ。

どんなに遠回りで、その時は無意味に無効に見えても、長い目で見たときには、必ず非暴力の道義の力が勝つ。
逆に、どれほど動機や目的が崇高で純粋でも、不殺生戒を破った時点で、闘争は大きな倫理的な問題や敗北を抱え込むことになる。
私はそう思う。

二点目は、彼らはあまりにも歴史について、偏った見方だったのではないかということだ。

たしかに、アイヌや朝鮮や中国への日本の侵略の歴史について、彼らほど真摯な問題意識を持つことは、今日になってすら日本人の中では珍しいかもしれない。
鹿島建設への爆破事件の決行日が、強制連行されてきた中国人労働者が無残な虐殺をされた花岡事件と同じ日を選んでなされたというエピソードなどを聞くと、いまもって花岡事件を知る人が少ない日本の現状を考えるとき、いろいろ考えさせられるものがある。

とはいえ、未遂に終わったとはいえ、伊豆山中の松井石根陸軍大将が建立した興亜観音とその横の七士之碑を爆破しようとしたり、はては未遂に終わったとはいえ昭和天皇を爆殺しようとしたことについては、私はどうしても、理解できない。
彼らは、たしかに、アイヌや朝鮮や中国への侵略の歴史は極めてよく勉強し、よく知っていたと思うが、松井石根らいわゆるA級戦犯や、昭和天皇について、いったいどれだけのことを具体的に知っていたのだろう。

ただ、この本の中の一節、

「こうは考えることができませんか。
何もしない者は、それだけ間違いも起こさぬものです。
そして、多くの者は、不正に気づいても気づかぬふりをして、何も事を起こそうとせぬものです。
東アジア反日武装戦線の彼等は、いわば「時代の背負う苦しみ」を一身に引受けて事を起こしたのであり、それゆえに多数の命を死傷せしめるというとりかえしのつかぬ間違いを起こしてしまったということです。
その間違いだけを責め立てて、何もしないわれわれが彼等を指弾することができるでしょうか。
極悪犯として絶縁できるでしょうか。

私にはできません。
私は彼らの苦しみ触れ続けたいと思うのです。」
(173頁)

という著者の松下竜一のメッセージには、胸打たれる。

なんにも知らなかったなあと、この松下竜一の本を読んでいて、思った。