福沢諭吉 「瘠我慢の説」

福沢諭吉 「瘠我慢の説」


立国は私なり、公に非ざるなり。地球面の人類その数億のみならず、山海天然の境界に隔てられて、各処に群を成し各処に相分るるは止むを得ずといえども、各処におのおの衣食の富源あればこれに依りて生活を遂ぐべし。又或(あるい)は各地の固有に有余不足あらんには互に之を交易するも可なり。即ち天与の恩恵にして、耕して食い、製造して用い、交易して便利を達す。人生の所望この外にあるべからず。何ぞ必ずしも区々たる人為の国を分て人為の境界を定むることを須(もち)いんや。況(いわ)んやその国を分て隣国と境界を争うに於てをや。況んや隣の不幸を顧みずして自から利せんとするに於てをや。況んやその国に一個の首領を立て、之を君として仰ぎ之を主として事(つか)え、その君主の為めに衆人の生命財産を空しうするが如きに於てをや。況んや一国中に尚お幾多の小区域を分ち、毎区の人民おのおの一個の長者を戴て之に服従するのみか、常に隣区と競争して利害を殊(こと)にするに於てをや。都(すべ)て是(こ)れ人間の私情に生じたることにして天然の公道に非ずといえども、開闢以来今日に至るまで世界中の事相を観るに、各種の人民相分れて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史口碑を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、都てその趣を同じうして、自から苦楽を共にする時は、復(ま)た離散すること能(あた)わず。即ち国を立て又政府を設る所以にして、既に一国の名を成す時は人民はますます之に固着して自他の分を明にし、他国他政府に対しては恰(あたか)も痛痒相感ぜざるが如くなるのみならず、陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張して殆(ほと)んど至らざる所なく、そのこれを主張することいよいよ盛んなる者に附するに忠君愛国等の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情に於ては之を称して美徳と云わざるを得ず。即ち哲学の私情は立国の公道にして、この公道公徳の公認せらるるは啻(ただ)に一国に於て然るのみならず、その国中に幾多の小区域ある時は、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私を以て内の為めにするの公道と認めざるはなし。例えば西洋各国相対し、日本と支那、朝鮮と相接して、互に利害を異にするは勿論、日本国中に於て封建の時代に幕府を中央に戴て三百藩を分つときは、各藩相互に自家の利害栄辱を重んじ一毫の微も他に譲らずして、その競争の極は他を損じても自から利せんとしたるが如き事実を見ても之を証すべし。扨(さて)この立国立政府の公道を行わんとするに当り、平時に在ては差したる艱難もなしといえども、時勢の変遷に従て国の盛衰なきを得ず。その衰勢に及んでは迚(とて)も自家の地歩を維持するに足らず、廃滅の数既に明なりといえども、尚お万一の僥倖を期して屈することを為さず、実際に力尽きて然る後に斃るるは是亦(これまた)人情の然らしむる所にして、その趣を喩えて云えば、父母の大病に回復の望みなしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるが如し。是れも哲学流にて云えば、等しく死する病人なれば、望なき回復を謀るが為め徒らに病苦を長くするよりも、モルヒネなど与えて臨終を安楽にするこそ智なるが如くなれども、子と為りて考うれば、億万中の一を僥倖しても、故(ことさ)らに父母の死を促がすが如きは、情に於て忍びざる所なり。左れば自国の衰頽に際し、敵に対して固より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか若(も)しくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。即ち俗に云う瘠我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの瘠我慢に依らざるはなし。啻(ただ)に戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際に於ても瘠我慢の一義は決して之を忘るべからず。欧洲にて和蘭(オランダ)、白耳義(ベルギー)の如き小国が、仏独の間に介在して小政府を維持するよりも、大国に合併するこそ安楽なるべけれども、尚おその独立を張て動かざるは小国の瘠我慢にして、我慢能く国の栄誉を保つものと云うべし。我封建の時代、百万石の大藩に隣して一万石の大名あるも、大名は即ち大名にして毫も譲る所なかりしも、畢竟瘠我慢の然らしむる所にして、又事柄は異なれども、天下の政権武門に帰し、帝室は有れども無きが如くなりしこと何百年、この時に当りて臨時の処分を謀りたらば、公武合体等種々の便利法もありしならんといえども、帝室にして能くその地位を守り幾艱難のその間にも至尊犯すべからざるの一義を貫き、例えば彼の有名なる中山大納言が東下したるとき、将軍家を目して吾妻(あづま)の代官と放言したりと云うが如き、当時の時勢より見れば瘠我慢に相違なしと雖も、その瘠我慢こそ帝室の重きを成したる由縁なれ。又古来士風の美を云えば三河武士の右に出る者はあるべからず、その人々に就て品評すれば、文に武に智に勇におのおの長ずる所を殊にすれども、戦国割拠の時に当りて徳川の旗下に属し、能く自他の分を明にして二念あることなく、理にも非にも唯徳川家の主公あるを知て他を見ず、如何なる非運に際して辛苦を嘗めるも曾て落胆することなく、家の為め主公の為めとあれば必敗必死を眼前に見て尚お勇進するの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるが如し。是れ即ち宗祖家康公が小身より起りて四方を経営し遂に天下の大権を掌握したる所以にして、その家の開運は瘠我慢の賜なりと云うべし。左れば瘠我慢の一主義は固より人の私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときは殆(ほん)んど児戯に等しと云わるるも弁解に辞なきが如くなれども、世界古今の実際に於て、所謂国家なるものを目的に定めて之を維持保存せんとする者は、この主義に由らざるはなし。我封建の時代に諸藩の相互に競争して士気を養うたるもこの主義に由り、封建既に廃して一統の大日本帝国と為り、更に眼界を広くして文明世界に独立の体面を張らんとするもこの主義に由らざるべからず。故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、外面の体裁に文野の変遷こそあるべけれ、百千年の後に至るまでも一片の瘠我慢は立国の大本として之を重んじ、いよいよますます之を培養してその原素の発達を助くること緊要なるべし。即ち国家風教の貴き所以にして、例えば南宋の時に廟議、主戦と媾和と二派に分れ、主戦論者は大抵皆擯(しりぞ)けられて或いは身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は媾和者の不義を悪(にく)んで主戦者の孤忠を憐まざる者なし。事の実際を云えば弱宋の大事既に去り、百戦必敗は固より疑うべきにあらず、寧ろ恥を忍んで一日も趙氏の祀を存したるこそ利益なるに似たれども、後世の国を治る者が経綸を重んじて士気を養わんとするには、媾和論者の姑息を排して主戦論者の瘠我慢を取らざるべからず。是れ即ち両者が今に至るまで臭芳の名を殊にする所以なるべし。


然るに爰(ここ)に遺憾なるは、我日本国に於て今を去ること廿余(にじゆうよ)年、王政維新の事起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。即ち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向て曾て抵抗を試みず、只管(ひたすら)和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済に於て一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷(そこな)うたるの不利は決して少々ならず。得を以て損を償うに足らざるものと云うべし。抑(そもそ)も維新の事は帝室の名義ありと雖も、その実は二、三の強藩が徳川に敵したる者より外ならず、この時に当りて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余江戸に帰るも更に佐幕の諸藩に令して再挙を謀り、再挙三挙遂に成らざれば退て江戸城を守り、仮令(たと)い一日にても家の運命を長くして尚お万一を僥倖し、いよいよ策竭(つく)るに至りて城を枕に討死するのみ。即ち前に云える如く、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。斯(かく)ありてこそ瘠我慢の主義も全きものと云うべけれ。然るに彼の媾和論者たる勝安房氏の輩は、幕府の武士用うべからずと云い、薩長兵の鋒敵すべからずと云い、社会の安寧害すべからずと云い、主公の身の上危しと云い、或は言を大にして墻(かき)に鬩(せめ)ぐの禍は外交の策にあらずなど、百方周旋するのみならず、時として身を危うすることあるも之を憚らずして和議を説き、遂に江戸解城と為り、徳川七十万石の新封と為りて無事に局を結びたり。実に不可思議千万なる事相にして、当時或る外人の評に、凡(およ)そ生あるものはその死に垂(なんな)んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆虫が百貫目の鉄槌に撃たるるときにても、尚おその足を張て抵抗の状を為すの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対して毫も敵対の意なく、唯一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは、古今世界中に未だその例を見ずとて、窃(ひそか)に冷笑したるも謂れなきに非ず。蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の労費と認め、味方に勝算なき限りは速やかに和して速やかに事を収るに若(し)かずとの数理を信じたるものより外ならず。その口に説く所を聞けば主公の安危又は外交の利害など云うといえども、その心術の底を叩て之を極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に瘠我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会に最も重んずる所の一大主義を曖昧模糊の間に瞞着したる者なりと評して、之に答うる辞(ことば)はなかるべし。一時の豪気は以て懦夫の胆を驚かすに足り、一場の詭言は以て少年輩の心を籠絡するに足るといえども、具眼卓識の君子は終に欺くべからず惘(し)うべからざるなり。左れば当時積弱の幕府に勝算なきは我輩も勝氏と共に之を知ると雖も、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りに非ず。況んや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるに於てをや。然るを勝氏は予め必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじて自ら自家の大権を投棄し、只管平和を買わんとて勉めたる者なれば、兵乱の為めに人を殺し財を散ずるの禍をば軽くしたりと雖も、立国の要素たる瘠我慢の士風を傷(そこな)うたるの責は免るべからず。殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり。此れを典して彼を買ふ、その功罪相償うや否や、容易に断定すべき問題に非ざるなり。或は云う、王政維新の成敗は内国の事にして云わば兄弟朋友間の争いのみ、当時東西相敵したりといえどもその実は敵にして敵に非ず、兎に角に幕府が最後の死力を張らずしてその政府を解きたるは時勢に応じて好き手際なりとて、妙に説を作(な)すものあれども、一場の遁辞口実たるに過ぎず。内国の事にても朋友間の事にても、既に事端を発するときは敵は即ち敵なり。然るに今その敵に敵するは、無益なり、無謀なり、国家の損亡なりとて、専ら平和無事に誘導したるその士人を率いて、一朝敵国外患の至るに当り、能その士気を振うて極端の苦辛に堪えしむるの術あるべきや。内に瘠我慢なきものは外に対しても亦た然らざるを得ず。之を筆にするも不祥ながら、億万一にも我日本国民が外敵に逢うて、時勢を見計らい手際好く自から解散するが如きあらば、之を何とか言わん。然り而して幕府解散の始末は内国の事に相違なしといえども、自から一例を作りたるものと云うべし。然りと雖も勝氏も亦人傑なり、当時幕府内部の物論を排して旗下の士の激昂を鎮め、一身を犠牲にして政府を解き、以て王政維新の成功を易くして、之が為に人の生命を救い財産を安全ならしめたるその功徳は少からずと云うべし。この点に就ては我輩も氏の事業を軽々看過するものにあらざれども、独り怪しむべきは、氏が維新の朝に曩(さ)きの敵国の士人と並び立て得々名利の地位に居るの一事なり(世に所謂大義名分より論ずるときは、日本国人は都(すべ)て帝室の臣民にして、その同胞臣民の間に敵も味方もあるべからずといえども、事の実際は決して然らず。幕府の末年に強藩の士人等が事を挙げて中央政府に敵し、そのこれに敵するの際に帝室の名義を奉じ、幕政の組織を改めて王政の古に復したるその挙を名けて王政維新と称することなれば、帝室をば政治社外の高処に仰ぎ奉りて一様にその恩徳に浴しながら、下界に居て相争う者あるときは敵味方の区別なきを得ず。事実に掩うべからざる所のものなればなり。故に本文敵国の語或いは不穏なりとて説を作す者もあらんなれども、当時の実際より立論すれば敵の字を用いざるべからず)。東洋和漢の旧筆法に従えば、氏の如きは到底終を全うすべき人に非ず。漢の高祖が丁公を戮し、清の康熙帝が明末の遺臣を擯斥し、日本にては織田信長武田勝頼の奸臣、即ちその主人を織田に売らんとしたる小山田義国の輩を誅し、豊臣秀吉織田信孝の賊臣桑田彦右衛門の挙動を悦ばず、不忠不義者、世の見懲しにせよとて之を信孝の墓前に磔にしたるが如き、是等の事例は実に枚挙に遑(いとま)あらず。騒擾の際に敵味方相対し、その敵の中に謀臣ありて平和の説を唱え、仮令(たと)い弐心を抱かざるも味方に利する所あれば、その時には之を奇貨として私にその人を厚遇すれども、干戈既に収まりて戦勝の主領が社会の秩序を重んじ新政府の基礎を固くして百年の計を為すに当りては、一国の公道の為めに私情を去り、曩(さ)きに奇貨とし重んじたる彼の敵国の人物を目して不臣不忠と唱え、之を擯斥して近づけざるのみか、時としては殺戮することさえ少なからず。誠に無慙なる次第なれども、自から経世の一法として忍んで之を断行することなるべし。即ち東洋諸国専制流の慣手段にして、勝氏の如きも斯かる専制治風の時代に在らば、或いは同様の奇禍に罹りて新政府の諸臣を警しむるの具に供せられたることもあらんなれども、幸にして明治政府には専制の君主なく、政権は維新功臣の手に在りて、その主義とする所、都(すべ)て文明国の顰に傚い、一切万事寛大を主として、この敵方の人物を擯斥せざるのみか、一時の奇貨も永日の正貨に変化し、旧幕府の旧風を脱して新政府の新貴顕と為り、愉快に世を渡りて曾て怪しむ者なきこそ古来未曾有の奇相なれ。我輩はこの一段に至りて、勝氏の私の為めには甚だ気の毒なる次第なれども、聊(いささ)か所望の筋なきを得ず。その次第は前に云える如く、氏の尽力を以て穏に旧政府を解き、由て以て殺人散財の禍を免れたるその功は奇にして大なりといえども、一方より観察を下すときは、敵味方相対して未だ兵を交えず、早く自から勝算なきを悟りて謹慎するが如き、表面には官軍に向て云々の口実ありと雖も、その内実は徳川政府がその幕下たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、我日本国民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免かれしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。天下後世に定論もあるべきなれば、氏の為めに謀れば、仮令(たと)い今日の文明流に従て維新後に幸に身を全うすることを得たるも、自から省みて我立国の為めに至大至重なる上流士人の気風を害したるの罪を引き、維新前後の吾身の挙動は一時の権道なり、権(か)りに和議を講じて円滑に事を纏めたるは、唯その時の兵禍を恐れて人民を塗炭に救わんが為めのみなれども、本来立国の要は瘠我慢の一義に在り、況んや今後敵国外患の変なきを期すべからざるに於てをや。斯かる大切の場合に臨んでは兵禍は恐るるに足らず、天下後世国を立てて外に交わらんとする者は、努々(ゆめゆめ)吾維新の挙動を学んで
権道に就くべからず、俗に云う武士の風上にも置かれぬとは即ち吾一身の事なり、後世子孫これを再演する勿れとの意を示して、断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛(なげう)ち、単身去てその跡を隠すこともあらんには、世間の人も始めてその誠の在る所を知りてその清操に服し、旧政府放解の始末も真に氏の功名に帰すると同時に、一方には世教万分の一を維持するに足るべし。即ち我輩の所望なれども、今その然らずして恰も国家の功臣を以て傲然自から居るが如き、必ずしも窮窟なる三河武士の筆法を以て弾劾するを須(ま)たず、世界立国の常情に訴えて愧じるなきを得ず。啻(ただ)に氏の私の為めに惜しむのみならず、士人社会風教の為めに深く悲むべき所の者なり。


又勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。是亦(これまた)序(ついで)ながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したれども、遂に窮して降参したる者なり。この時に当り徳川政府は伏見の一敗復た戦うの意なく、只管(ひたすら)哀を乞うのみにして人心既に瓦解し、その勝算なきは固より明白なる所なれども、榎本氏の挙は所謂武士の意気地即ち瘠我慢にして、その方寸の中には窃(ひそか)に必敗を期しながらも、武士道の為に敢て一戦を試みたることなれば、幕臣又諸藩士中の佐幕党は氏を総督として之に随従し、都(すべ)てその命令に従て進退を共にし、北海の水戦、箱館の籠城、その決死苦戦の忠勇は天晴(あつぱれ)の振舞にして、日本魂の風教上より論じて、之を勝氏の始末に比すれば年を同うして語るべからず。然るに脱走の兵、常に利あらずして勢い漸く迫り、又如何ともすべからざるに至りて、総督を始め一部分の人々は最早これまでなりと覚悟を改めて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられたるこそ運の拙きものなれども、成敗は兵家の常にして固より咎むべきにあらず、新政府に於てもその罪を悪(にく)んでその人を悪まず、死一等を減じて之を放免したるは文明の寛典と云うべし。氏の挙動も政府の処分も共に天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服すること能わざる所のものなり。敵に降りてその敵に仕うるの事例は古来稀有にあらず。殊に政府の新陳変更するに当りて、前政府の士人等が自立の資を失い、糊口の為めに新政府に職を奉ずるが如きは、世界古今普通の談にして毫も怪しむに足らず、又その人を非難すべきにあらずと雖も、榎本氏の一身はこの普通の例を以て掩うべからざるの事故あるが如し。即ちその事故とは日本武士の人情是れなり。氏は新政府に出身して啻(ただ)に口を糊するのみならず、累遷立身して特派公使に任ぜられ、又遂に大臣にまで昇進し、青雲の志達し得て目出度しと雖も、顧みて往事を回想するときは情に堪えざるものなきを得ず。当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、北風競わずして遂に降参したるは是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領として之を恃(たの)み、氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに、首領にして降参とあれば、仮令(たと)い同意の者あるも、不同意の者は恰(あたか)も見捨てられたる姿にして、その落胆失望は云うまでもなく、況して既に戦死したる者に於てをや。死者若(も)し霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。伝え聞く、箱館五稜郭開城の時、総督榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告せしに、一部分の人は之を聞て大に怒り、元来今回の挙は戦勝を期したるに非ず、唯武門の習として一死以て二百五十年の恩に報るのみ、総督若し生を欲せば出でて降参せよ、我等は我等の武士道に斃れんのみとて憤戦止まらず、その中には父子諸共に切死したる人もありしと云う。烏江水浅騅能逝(うこうみずあさくしてすいよくゆくも)、一片義心不可東(いつぺんのぎしんひんがしすべからず)とは、往古漢楚の戦に、楚軍振わず項羽が走りて烏江の畔に至りしとき、或人は尚お江を渡りて再挙の望なきにあらずとてその死を留めたりしかども、羽は之を聴かず、初め江東の子弟八千を率いて西し、幾回の苦戦に戦没して今は一人の残る者なし、斯る失敗の後に至り、何の面目か復た江東に還りて死者の父兄を見んとて、自尽したるその時の心情を詩句に写したるものなり。漢楚軍談のむかしと明治の今日とは世態固より同じからず。三千年前の項羽を以て今日の榎本氏を責るは殆(ほと)んど無稽なるに似たれども、万古不変は人生の心情にして、氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりといえども、時に顧みて箱館の旧を思い、当時随行部下の諸士が戦没し負傷したる惨状より、爾来家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて路傍に彷徨するの事実を想像し聞見するときは、男子の鉄腸も之が為めに寸断せざるを得ず。夜雨秋寒うして眠り就(な)らず残灯明滅独り思うの時には、或は死霊生霊無数の暗鬼を出現して眼中に分明なることもあるべし。蓋し氏の本心は今日に至るまでもこの種の脱走士人を見捨てたるに非ず、その挙を美としてその死を憐まざるに非ず。今一証を示さんに、駿州清見寺内に石碑あり、この碑は前年幕府の軍艦咸臨丸が清水港に撃たれたるときに戦没したる春山弁造以下脱走士の為めに建てたるものにして、碑の背面に食人之食者死人之事(ひとのしよくをはむものはひとのことにしす)の九字を大書して榎本武揚と記し、公衆の観に任して憚る所なきを見れば、その心事の大概は窺(うかがい)知るに足るべし。即ち氏は曾て徳川家の食を食む者にして、不幸にして自分は徳川の事に死するの機会を失うたれども、他人の之に死するものあるを見れば慷慨惆悵自から禁ずる能わず、欽慕の余り遂に右の文字をも石に刻したることならん。既に他人の忠勇を嘉(よ)みするときは、同時に自から省みて聊(いささ)か不愉快を感ずるも亦人生の至情に免るべからざる所なれば、その心事を推察するに、時としては目下の富貴に安んじて安楽豪奢余念なき折練、又時としては旧時の惨状を懐うて慙愧の念を催おし、一喜一憂一哀一楽、来往常ならずして身を終るまで円満の安心快楽はあるべからざることならん。左れば我輩を以て氏の為めに謀るに、人の食を食むの故を以て必ずしもその人の事に死すべしと勧告するにはあらざれども、人情の一点より他に対して常に遠慮するところなきを得ず。古来の習慣に従えば、凡(およ)そこの種の人は隠世出家して死者の菩提を弔うの例もあれども、今の世間の風潮にて出家落飾も不似合とならば、唯その身を社会の暗処に隠してその生活を質素にし、一切万事控目(ひかえめ)にして世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ。之を要するに維新の際、脱走の一挙に失敗したるは、氏が政治上の死にして、仮令(たと)いその肉体の身は死せざるも最早政治上に再生すべからざるものと観念して唯一身を慎み、一は以て同行戦死者の霊を弔して又その遺族の人々の不幸不平を慰め、又一には凡そ何事に限らず大挙してその首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて決して之を遁るべからず、成ればその栄誉を専らにし敗すればその苦難に当るとの主義を明にするは、士流社会の風教上に大切なることなるべし。即ち是れ我輩が榎本氏の出処に就き所望の一点にして、独り氏の一身の為めのみにあらず、国家百年の謀に於て士風消長の為めに軽々看過すべからざる所のものなり。


以上の立言は我輩が勝、榎本の二氏に向て攻撃を試みたるに非ず。謹んで筆鋒を寛にして苛酷の文字を用いず、以てその人の名誉を保護するのみか、実際に於てもその智謀忠勇の功名をば飽くまでも認る者なれども、凡(およ)そ人生の行路に富貴を取れば功名を失い、功名を全うせんとするときは富貴を棄てざるべからざるの場合あり。二氏の如きは正しくこの局に当る者にして、勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、之を解きて主家の廃滅したるその廃滅の因縁が、偶(たまた)ま以て一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便と為りたる姿にては、仮令いその富貴は自から求めずして天外より授けられたるにもせよ、三河武士の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角の功名手柄も世間の見る所にて光を失わざるを得ず。榎本氏が主戦論を執りて脱走し遂に力尽きて降りたるまでは、幕臣の本分に背かず忠勇の功名美なりといえども、降参放免の後に更に青雲の志を発して新政府の朝に富貴を求め得たるは、曩(さき)にその忠勇を共にしたる戦死者負傷者より爾来の流浪者貧窮者に至るまで、都(すべ)て同挙同行の人々に対して聊(いささ)か慙愧の情なきを得ず。是亦(これまた)その功名の価を損ずる所のものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名を空しするの媒介なれば、今尚お晩(おそ)からず、二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。天下後世にその名を芳にするも臭にするも、心事の決断如何に在り、力(つと)めざるべからざるなり。然りと雖も人心の微弱、或は我輩の言に従うこと能わざるの事情もあるべし。是亦止むを得ざる次第なれども、兎に角に明治年間にこの文字を記して二氏を論評したる者ありと云えば、亦以て後世士人の風を維持することもあらんか、拙筆亦徒労に非ざるなり。

(以上)