現代語私訳『福翁百話』 第十六章 「無宗教に見える日本の上流階級や知識人も宗教に惑わされることは避けられません」

現代語私訳『福翁百話』 第十六章 「無宗教に見える日本の上流階級や知識人も宗教に惑わされることは避けられません」


ある人は、このように評論しています。
日本の上流社会は士族階級出身か、そうでなければ他の階級が士族化した者であり、その精神が宗教に対して無関心で冷淡であることは水のようなもので、仏教が説くような過去世・現在世・未来世に原因と結果の法則があるなどということも問題にせず、死後の世界などの話も語らず、そうした事柄に全く無関心に過ごす気風に養われてきました。
特に最近は西洋文明の教育が少しずつ盛んになるにつれて、段々と合理主義の世界に深く入るようになり、その精神はいよいよますます宗教に冷淡のようです。
要するに、こうした日本の上流社会の人々はもともと未だかつて誤った信仰に惑わされたり、それらに深く染まったことがないので、これらの人々を宗教に入らせようと願っても全く無理なことだ。
と、こういう説を述べております。


一見、自然な議論に聞こえるようではありますが、こうした評論は、宗教に対する士族階級の考え方がどのようなものかを知っているだけで、士族階級の精神全体の本当の姿に気づいていないものです。


士族階級や士族化した人々が、いわゆる宗教に冷淡であることは隠れもない事実ですが、何百年も儒教の教育に影響されてきて、また封建社会の君主と臣下の関係という考え方によって育てられてきて、先祖代々、骨身にしみるほどの習慣がつくられていたその様子は、仮に表現すればある種の宗教の信者と言えるようなものです。


すでに一種の宗教だとすれば、その宗教の中には良い面があるのと同時に、誤った迷信に惑わされている部分があることも当然のなりゆきであり、そうしたことは決して避けられないものでしょう。


君主への忠義のためならば家族も犠牲にするという主義は、自分の子どもを殺して幼い君主の身代わりとし、自分の娘を遊郭に売って亡くなった君主の仇を討つための資金とするような悲惨な事例を生じました。
しかし、そうした事例の様子を見ても、少しも疑問に思う人はおらず、殉死はあの世に行った君主の御伴をするためだと言い、その君主によって手打ちに遭い殺された忠義な家臣が、幽霊となって君主を諌めた、というような話は、いわゆる君臣の忠義という一種の宗教の中にある誤った迷信とそれに惑わされた精神状態と観察すべきものです。


また、つい最近の時代の封建時代の士族について言うならば、その心は気高く豪快で自由な気性だと言われている武士が、ある他人の古着をもらい、食べ残しを食べ、しかもその古着が少し古びて汚れがついているものや、食べ残しもすでに箸をつけた本当の残飯であればあるほど、ますます感動してありがたしなどと言うようなことがありました。


そのような場合の、その他人とはどのような人かといいますと、いわゆる大名殿様で、十人のうち七、八人は、学問もない愚か者で、精神も身体も虚弱で、言葉と行動も一貫せず、日常生活の道徳もだらしなく、遊び呆けて女好きで、ひどい場合は豆と麦の区別もつかない馬鹿者も少なくありませんでした。


こうした大名殿様たちは、健康や遺伝という分野の学問から見れば、社会でも最も下等な人々で、武士の風上にも置けぬ人たちなのですが、何の因果でしょうか、士族の間に君臣の忠義という宗教が篤く信じられていたので、こうした大名殿様が尊ばれ崇められる様子はこのようなものでした。
誤った迷信に惑わされているものでなくて一体なんだと言うのでしょうか。


封建社会の真っただ中の時代においては、そうした君臣の忠義の信者たちであった武士たちも、その他の階級の世間一般の人々も、両方とも何も気づかないことでしたが、明治時代の今日から過去を回想するならば、きっと自分でそのおかしさに気づいて自問自答して、自分でも説明に苦しむことでしょう。


一般的に、こうした誤った迷信に惑わされるということは、その程度の差こそあれ、世界のどの国のどの時代にも見られるものです。
たとえば、卓越した見識を持った独立自尊の人物だと言われながら、しょせんは人がつくったものに過ぎない爵位や勲章などを身に付けて、金銀のそうした飾りを輝かせて意気揚々と満足しているようなことも、一種の誤った迷信に惑わされているものと違いはありませんが、社会においてこれに疑問を持つ人もいません。
逆に、他の見識あり立派な人物だと目されている人々が、爵位や勲章に羨望の思いを起すことこそ多いものです。


ですので、この社会においては、立派な人物も、立派でない人物も、両方とも迷いの淵に沈んで混じりこんでいる状態ですので、誤った迷信に惑わされるということは宗教への信仰に伴うものなので日本の士族階級や知識人たちはそうした土壌がないために宗教に入る可能性は乏しい、などと結論することは、私には承服できないことです。


士族たちは今、封建時代の君主と臣下の忠義という宗教を抜け出し、ちょうどこれからの方向性に迷っている時です。
その生まれつきの精神は宗教に無関心で冷淡どころか、本当は逆に極めて濃厚なもので、本当は別に豪快なものでもないので、その信仰心の方向を転換してなんらかの宗教に入ることは非常に簡単なことです。
士族も知識人も、だいたい平均すれば本当にすぐれた人は極めて少なく、他の階層と同じで、愚か者ばかりの社会です。
宗教の教育を受け良い影響を受けるようにすることこそ、本当はふさわしいことでしょう。