現代語私訳『福翁百話』 第十章 「人間の心ははてしなく広く大きい」

現代語私訳『福翁百話』 第十章 「人間の心ははてしなく広く大きい」



人間の人生は、まことにみすぼらしくみじめなことはウジムシと同じようなもので、宇宙からすれば、朝の露が蒸発するほどの短い間の五十年か七十年ぐらいの間を、遊戯や冗談のように過ごしていくだけのことですので、自分の身をはじめとして宇宙のあらゆる物事を、あまり重たく考えず軽く見て、あまりにも熱心になり過ぎないようにするべきです。


この世に生まれることは、つまりいつかは必ず死ぬと決まっているわけで、死ということですらべつに驚くことではなく、ごく当たり前のことです。
ましてや、この世の中の経済的な成功や貧しさや、幸福や苦悩など、ごく当たり前のことです。


この世の浮き沈みなど当たり前のことですし、それだけでなく、貧しいことが必ずしも不幸や苦しみだけというわけではありませんし、経済的に豊かなことが必ずしも幸福だというわけでもありません。
ただこの世の人生は、ほんの一時の間の遊戯や冗談のようなもので、その束の間の時間を過ぎ去れば、すべて消え去って何のあとかたもないものだと理解すべきです。


以上のことを理解することが、この人生を気楽に生きるための秘訣の根本だと、深く自分の胸に刻むことです。


さて、それでは、この世界において、今日をどのように生きるべきでしょうか?


この世界において今日をどう生きるべきかと言いますと、ウジムシはもともとウジムシであり、もし高尚な心が自分にあったとしても、他のウジムシたちと混じりあって生活しているわけで、そんなに高尚なことだけで生きるわけにもいきません。


ですので、人生を愛していのちを粗末にすることを憎み、貧しいことや苦しいことは素直に嫌がり、幸福や経済的に裕福であることを素直に喜び、この世界で人間としてなすべき義務をきちんと務めることです。


そうして、苦しいことがあっても楽しいこともあり、楽しいことがあっても苦しいこともある、そんな人生を生きていく中で、苦しいことと楽しいこととを大体平均すれば、楽しかったことの方が多くなることを願って生きるのです。


さらに、そう願って生きるだけでなく、その楽しいことや喜びをより大きくするために思いきり努力するのです。
その中には、一つのことの成功をつかみとるまで、十年もの長い間努力を積み、成功してのちにやっと長い努力に自ら満足して心を慰めるということも、当然あって良いことでしょう。


苦心し努力し、自分自身のためだけでなく、父母のため、妻や夫のため、子どものため、親戚のため、友人のため、さらに進んでは広くこの世界の公共の利益のために、多くの貢献をする。
そうであってこそ、はじめて人として生まれてきて、この世界で人生を過ごす中でなすべき、本来のつとめ・本分を果たしたものと言えることでしょう。


ですので、この章の前半において、人生は遊戯や冗談のようなものだと言い、死ぬこともべつに驚くことではない当たり前のことだと言いましたが、この前半と、今の後半で、どのように生きるべきかということになれば、いのちを愛しいのちを粗末にすることを憎み、苦心努力して喜びや幸福を求めなさいとアドヴァイスしていることは、一見前半と後半で矛盾しているようですけれど、もともと人間の心ははてしなく広く大きなもので、単なる理屈を超えてこそ、ゆったりと落ち着くことができるものです。


たとえば、木造建築の家の中で火を使えば、場合によっては家が火事になるのは当然のことで、火を使っても無事でいる方が不思議なことでしょう。
また、神ならぬ人の身は、知らないうちに健康をおろそかにしている人もいますし、あるいは健康に悪いと自覚しながら健康に悪いことをしている人も多くいます。
どちらも病気の原因ではありますが、それだけでなく、たとえ健康に気を付けていても、年を取ることは人間だれしも結局は逃れることができないものです。
これはすべて自然の決まりごとでありますので、木造建築の家が火事になることも、人が病気になることも、べつに本当は驚く理由はなく、そのまま放っておくべきはずのことです。


しかし、火事が起これば慌てて火を消し火事を防ごうとし、病気の時はとても心配して治療や薬を求めます。
つまり、これが人間の感情の普通の姿です。


一つの側面から見れば、火事も病気もべつに驚く必要はなくて平気でいることこそ道理かもしれませんが、現実に直面するという他の側面からすれば、やはり驚かずにはいられないことです。


いや、火事や病気に直面して驚く人間であって、はじめて人間としての本来のつとめ・本分を果たすことができるのです。


どちらが妥当でどちらが妥当でないか、人間の心は本当は大きく二通りに分かれるはずでしょうけれど、一人の人間の一つの心が両方の働きをなして矛盾することがありません。
これは、つまり、人間の心がはてしなく広く大きいからです。


人生は遊戯や冗談のようなものだと自覚しながら、その遊戯や冗談のような人生を本気に真剣に努力して、飽きることも怠けることもないようにする。
飽きることも怠けることもないがために、社会や公共の秩序をよく形成して守り育む。
それと同時に、もともと遊戯や冗談のようなものだと自覚しているので、大きな出来事に直面しても、そんなにあわてることも動揺することもなく、過度に心配したり悩むこともなく、後悔することもなく、悲しむこともない。
このようであってこそ、この人生を本当に気楽に幸福に生きていくことができるわけです。