「自らの行動の価値を最大化するため努力すべき」

「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-21136220110517


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人々はどのように生きるべきかとの問いに対し「自らの行動の価値を最大化するため努力すべき」と答えた。
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この箇所が、この記事の中では特に素晴らしいと思った。

結局、死後の世界があろうとなかろうと、この姿勢が一番大事ではなかろうか。

ホーキングさんは死後の世界はないと考えているのだろう。
それはホーキングさんの自由と思う。

結局、死んでみない事には、普通の人間には本当のところはわからない。

大事なことは、死後の世界がないと決めつけることでも、あると決めてかかることでも、どちらでもないのではないかと思う。

どちらであろうと、生きている間に立派に良く生きようとすることが大事ではないかと思う。

もし死後の世界があるならば、今生で正しく良く生きた人は当然良い報いがあるだろう。
一方、仮に死後の世界がなくても、今生で正しく良く生きた人はいま生きている間から人から信頼され、自らも正々堂々と悔いなく生きることができる。

もし死後の世界があるならば、今生で悪く生きた人は悲惨な境涯になるだろう。
一方、仮に死後の世界がなくても、今生で悪しく生きた人はいま生きている間から、人から信頼もされず、自らも悔いや恐れを抱き生きることになるだろう。

大事なことは、死後の世界の有無を自分の頭で決めてかかることではなくて、どちらであろうと、今生を価値あるように正しく良く生きる姿勢ではないかと思う。

ただ、今生を価値あるように正しく良く生きようと思うには、「死」を意識した方が、生にもメリハリがつくことはあるかもしれない。

そして、おそらくは、死をどう受けとめ、どう理解するかは、生のありかたや姿勢にも、本当は大きな影響が出てくるのだろうとは思う。

安易にあるかないかと決めてかかるのではなく、自分として、どう死を受け入れ、どう受けとめていくかということは、大事なことではないかと思う。

私自身は、輪廻転生や浄土ということを考える時に、死というものが単なる終わりや滅びではない、もっと広い視野や、豊かに死を受けとめ、生も尊く死も尊いという精神の領域が開かれるような気がする。

ただ、仮に死後の世界はあるという受けとめ方をするにしても、今生を良く正しく精一杯生きようとする姿勢が、何よりも大事だと思う。
そうでなければ、死後の世界の想定というのは、単なる今生の放棄やごまかしや逃避にしかならないのではないかと思う。

「自らの行動の価値を最大化するため努力すべき」

というのは、どちらの立場をとるにしても、とても大事な、とても共感できるメッセージだと思う。



(追記)


死後の世界を倫理や道徳や行為と無関係な世界として想定する考えもあると思う。

しかし、その場合、どのみち今生での道徳や行為と無関係なので、今生で何かできることはない。
その場合、今生と無関係な死後の世界というのは、あまり考えても意味がなく、結局死後の世界はないと考えることとあまり違いはないのではないかと思う。

死後の世界を道徳と関係があるとする考えには、誰かが審判するというイメージに対する反発や懐疑がある場合もあるようだ。
ただ、死後の世界を道徳と関係があるとする考えは、べつに誰かが審判する倫理的審判ということとは必ずしも関係なく、心を一種のエネルギーや質の問題として考える考え方でもありうる。

後悔や怒りの多い心と、穏やかで悔いがなく自信にあふれてる心とは、今生で観察しても全く心の質や明るさが違う。

仮に、死後の世界があり、今生と無関係ではなく、今生の心の質やエネルギーが原因となって結果として何かが連鎖していくと考えれば、べつに誰かが審判することではなく、原因と結果のおのずとした法則によって、道徳によって差が出てくると考えるのは妥当だと思うし、私自身はこの考えの方が納得がいく気がする。

ちなみに、もともと、仏教では誰かが亡くなった人の罪を審判するということはなく、心の質が原因と結果の法則によってたえず連鎖しており、肉体が滅びても心の質がすぐに次の変化を原因と結果の法則によって起こすと考えていたことが経典やアビンダマッタサンガハ(経典のエッセンスの「論」と訳されるもの」)からは言える。

閻魔大王が地獄で裁く、といったものは、後世にわかりやすく文学的に表現したものだろう。

閻魔のもともとの起源は、ヤマ天というインドの神話の中の神様で、仏教の中では夜摩天という世界の生命体として考えられているようである。
もともとの仏教の場合では、べつに死ぬ人をヤマ天が裁くわけではなく、死ぬ人自身のカルマが死後の行先を決めると考えていたようだが、ヤマ天は優しい神様で、人が死にいく時に現れて、その人が生前なした良い行為・善行をなるべく思い出させてあげて、死ぬ瞬間の心が明るくなるように助けてくれると考えていたそうだ。
もともとの仏教では、死ぬ瞬間の心のありかたが死後のありかたにも大きな原因となると考えており、死ぬ瞬間に自分の人生の悪行を思い出して暗い心で死ぬのと自分の善行を思い出して明るい心で死ぬのとではだいぶ違う結果を生じると考えていたようだ。

中国や日本では地獄で厳しく人を裁く閻魔大王が、もともとは人が死ぬ瞬間に善行為を思い出させてくれる優しい存在だと描かれていたことは面白い。

いずれにしろ、もともとの仏教では、誰かが裁くのではなく、今生での心のエネルギーが死後の世界にも原因となっていくと考えていたようだ。