政府が「無縁社会」対策に本腰
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011011800897&j1
無縁社会の一つの要因としては、未婚率の上昇や出生率の低下があると思う。
なので、結婚や出産がしやすい制度上の工夫をすることは、一定の効果があると思うし意味はあると思う。
もちろん、それだけが無縁社会の要因ではないので、この措置だけでは必ずしも無縁社会をとどめることはできないかもしれない。
個々人のコミュニティ・スキルの向上を学校教育から図ることや、コミュニティ・オーガナイザーのような存在を日本の土壌や必要に合わせて制度的に工夫することも有効な場合もあると思う。
ただ、しょせんは政府や政治にできることはたかが知れているので、個々人や民間の団体がそれぞれに課題意識を持って取り組むしかないことなのだろう。
私は、寺や神社などが、もっとコミュニティの核としての役割を回復できないものかなあと個人的には思っている。
伝統的な宗教団体も税金が免除されているのだから、少しはコミュニティの再建や昔の講のような役割を自発的にもっと積極的にがんばればいいと思うのだが、なかなか現状では難しいようである。
もちろん、そうした試みや役割を果たしている寺や神社も多々あるとは思う。
が、新興宗教に比べて全体として伝統宗教は葬式か観光がメインのことが多いようである。
無縁死を宿命と受け入れるほどは、たぶん大半の人間は強くはないし、人生の豊かさが絆や縁にあるとするならば、無縁死はあまりにも索漠とした文明の成れの果てだと私は思う。
どうすれば無縁社会・無縁死から、もっと豊かな絆や縁のある社会にすることができるのか。
とても難しい課題ではあるが、この課題は二十一世紀の日本の、本当は最も問われるべきことのように私は思う。
明治維新以来、藩や村などあらゆる中間共同体を破壊し、坂の上の雲を目指してひたすら近代化と経済発展に努め、都市化と経済成長に励んだあげくの果てが、無縁社会・無縁死。
近代化や都市化は不可避の宿命だったし、そのおかげで物質的に豊かな生活を築いてきたのだから、意味のあることだったと思うし、過去の世代の偉大な成果だったとも言えよう。
しかし、物質的な豊かさだけで人間としての絆や縁の貧しい人生は決して豊かな人生とは感じられないことも、今の日本は切実に痛感していると思う。
利潤第一主義だけの価値観では、社会は結果として索漠とした味気ないつまらないものになってしまう。
菅政権は「新しい公共」を掲げたり、単なるGDPとは異なる「幸福度」を価値にすることを掲げているようである。
それはそれなりにこうした世情への対応と言えるかもしれないし、それなりに意義のあるものなのかもしれない。
ただ、政治にできることはたかが知れているので、個々人の意識が変わらないことには、社会全体としてどうかなるというものではない。
単なる利潤第一主義だけではない、絆や縁を金よりも大事とする方向に個々人の意識が切り替わっていかないことには、なかなか無縁社会も無縁死も減らないかもしれない。
地獄の沙汰も金次第とは言うけれど、人生や死に方が無縁か豊かな縁のあるものかどうかは、これっばかりは金だけではどうにもならず、人あってのものだろう。
とりあえず、政治には、結婚・出産をしやすい制度上の工夫と、行き過ぎた競争社会や利潤第一主義にならないような工夫をして欲しいものである。
特に、福祉と教育において、近頃流行のつまらない実利主義や功利主義を排して、確固たる信念で強い社会保障と文教費の充実に努めて欲しいものである。
アダミ・スミスは、実は道徳と福祉と教育には功利主義を入れてはいけないと述べていた。
昨今は、福祉や教育まで功利主義で見る風潮が多いようなので、断じてそのようなことがないようにしていくことが、無縁社会や無縁死ばかりの索漠とした文明の慣れの果てになる事態を防ぐ数少ない政治ができることのように思う。
その他のことは、やはり政治よりも個々人がどうにかするしかないことなのだろう。