(2010年 4月記す)
これはある方とやりとりしていて、ふと思ったことなのだけれど、
宗教において「ありがたさ」をむやみと強調したり、自分の中身がからっぽなのにやたらありがたがる人というのは、おそらく全然ありがたくない人なのではないかと思う。
たぶん、「ありがたさ」というのは、現証に裏打ちされていなければ無意味な言葉で、自分の内容はからっぽなのに法名をもらっただの威張って他人に無意味な横槍を入れて恥じない人間や、断章取義ばかりしてもなんら恥じないどころか人を責めることに急な人間などは、最も「ありがたさ」から程遠い人間なのだと思う。
おそらく、
「ありがたさ」=「余裕やよろこびみたいなもの」+「やさしさ」+「明晰な智慧」
というのが、本当なのではないかと思う。
これら三つが具わった人が、おのずとありがたいのであり、これら三つもないものが、ありがたいはずはなく、ましてや人にありがたさを伝えたり教えたりするのはおこがましいことなのだろう。