梯和上の御法話 メモ

(2009年5月記す)


この前、梯実円和上の御法話を聴いてて、なるほどーっと思ったことがあった。

ちょっと不正確かもしれないけれど、だいたい以下のような内容の御話がとても印象にのこった。


釈尊のお悟りとは、生死を超えた精神の領域に目が開くことだったのでしょう、

生もありがたく、死もありがたい、

生も尊く、死も尊い

心豊かに生き、心豊かに死ぬ、

そうした道が、釈尊には見えて、そのためにどうすればいいかということを教えとして人々に伝えられた、

臨終を、すべてが無に帰して何もかもが終わる死だと思うか、あるいは浄土で仏に生まれることになると思うか、

どちらと思うかで、人生はぜんぜん違ってくる、

死をひっくるめて、人生全体をどう受けとめるか、どう受けいれるかが大切であり、そこから今の生き方も決まってくる、

浄土で仏となって生まれると思ってごらんなさい、

そうすると、死が終わりだというのとは、ぜんぜん違う人生が開けるし、仏になっていくというひとつの方向と秩序が人生に与えられる、

生も尊く、死も尊い、心豊かに生き心豊かに死ぬことのできる精神の領域が開かれる、


大略、そんな御話だったと思う。

この御話のほかにも、歎異抄や十七条憲法について、とても深い話があって、本当にありがたかったけれど、特にこの話が私には心にのこった。

浄土に往生するということを、何か遠くに空間移動する話のように思って、ピンとこないし、興味も持たないし、迷信ぐらいにしか思わないのが、かつての私も含めた現代人一般に多いあり方かもしれないけれど、

では、そうした現代人が、生もありがたく死もありがたい、という境地に達しているかというと、ぜんぜんそうでもなかろう。

むしろ、死を忘却し、結果として本当の意味の生を忘却していることも多いと思う。

生と死をともに見晴らし見渡す悟りを開いた釈尊の言葉を聴き続け、自分自身が悟りを開くことはできないとしても、生と死をともに尊くありがたいものと受けいれ心豊かに生き死にするのが往生浄土の念仏の道ということなのだとあらためて気づかされた気がした。