魂が潰されることを拒否するということ 

(二年ほど前に記す)


これは、私の思いっきり主観なので、違う歴史観の人も多々いると思うし、ぜんぜん共鳴してくれない人も多いかもしれないけれど、ふとこんなことを思った。
前々から思っていることでもある。

「元和の大殉教図」に寄せて、人の受難をへらへらにやにやと笑って、鈍感に傍観して何の痛痒も感じない人間が、私は一番嫌いだという話をしたけれど、

悲しいことに、世の中はそういう人がいつの時代も多いと思う。

痛痒は感じても、それを表現できなかったり、とばっちりを恐れて見て見ぬふりとどまる人も多いと思う。
そういう人が大半かもしれない。

で、思うのだけれど、

もちろん、戦国時代の切支丹や昭和初期の共産党員など、非常につらい弾圧を受けた人々は、日本の歴史にはときどきいるし、いろんな形で辛苦を舐めた人は、決して少なくないとは思うけれど、

これは私の主観も入っているけれど、日本の歴史上、もっとも悲劇的なのは、幕末の会津だと思う。

孝明天皇の勅命に忠実に、ひたすら愚直に義を守って誠実に生きていたら、いつの間にやら同盟国だったはずの薩摩に裏切られ、逆賊の身にさせられ、
それでも恭順をしようとしたのに、薩長に無理やり戦争に追い込まれ、一藩をあげて滅亡に追い込まれたその有り様は、

なんというか、キリストの受難というのがオーバーであるとしても、旧約聖書のヨブを彷彿とさせるものはあると思う。

落ち度のない義人の受難、としか言いようがないと思えるのである。

いろんな見方があって、志半ばで会津新撰組に殺された尊皇攘夷の志士たちから見れば、会津は恨んでも余りある人々だったろうし、大局を知らず、時勢をあまりにも知らなかったというのは、それはそのとおりだろう。

だが、天皇の勅命に忠実に、そして薩会同盟にあくまで忠実だった会津が、逆賊の身にさせられ、いつの間にやら薩長同盟の敵にさせられ、恭順降伏しようとしたのに受け付けられず、殲滅させられた、というのは、「受難」としか言いようがないと思う。

そして、日本の大半は、会津の受難に見てみぬふりをしたのだと思う。

大半の藩は、薩長に味方した。

東北や北陸の諸藩だけは、一時期は奥羽越列藩同盟を結成して、会津に味方するように動いたけれど、長岡や南部や二本松を除けば、仙台や米沢などろくに戦いもせずに会津を見捨てている。
それに、闘った諸藩は、それぞれの事情であって、べつに会津への義侠心からでもなかったろう。

というわけで、なんというか、痛痒を感じなかったか、あるいは痛痒を感じながらも黙って見てみぬふりをしたか、そんな人々しか、幕末にはいないと思っていた。

「義を見てせざるは勇なきなり」

というのが武士道の精神だとしたら、大半の日本人は、その精神からは程遠かったのだと思う。

で、私が今年、一番ヒットしたというか、ホームランだったというか、こんな人間がいたのか〜っと、感嘆したのは、雲井龍雄だった。

本来ならば、王政復古に尽力した経歴もあり、後藤象二郎広沢真臣ら維新の顕官と深いパイプを持っていたし、要領よく生きれば十分に新政府でそれなりにおいしいポジションにつけたにもかかわらず、会津の受難を座視することを拒んで、奥羽列藩同盟に飛び込んで、薩摩と闘い、戊辰戦争が敗戦に終わったあとは、集議院において堂々と言論で薩長藩閥政治を批判し、没落した士族の救済に奔走した。

つまり、へらへらにやにやと、人の受難を他人事として傍観することを、断固として拒む生き方を貫いた。

そのために、でっちあげの陰謀事件で死刑にさせられたけれど、最後まで節義を屈することなく、堂々と従容として死に臨んだ。

こんな人間がいたんだ〜っと、とても感動した。

で、そののこした詩も、すばらしいものばかり。

今もって、あんまり有名じゃないし、理解されることもあんまりないし、よくわからん人物ぐらいにしか扱われてないけれど、私は幕末で最も「義人」の名にふさわしい人だったのではないかと思う。

単なるロマンチストだと、あるいは、生き方が不器用な、幻想にのみ生きた人間と、そう思う人も多いかもしれないけれど、私は、この短い人生を、束の間うまく生きて、魂が潰れた人間よりは、たとえその人生では必ずしもうまく生きれず不器用であったとしても、魂が潰されることを断固として拒否した人間こそ、本当の義人や義士の名に値するし、千年ののちに語り継がれるべき人物と思う。

とはいえ、これは、思いっきり私固有の歴史観と道徳観になるので、おそらく、あんまり誰も共感してくれないのだろうなぁ。。