二年ほど前、中公バックスの日本の名著の幸徳秋水のに収録されている、「死刑の前」を読んだ。
今は、全文、WEB上で読めるようである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000261/files/4324_14048.html
(以下は二年前に読んだ時の感想)
だいぶ昔に読んだことがあったはずなのだが。
ぜんぜん記憶にない。
いま新たに読んで、一読、とても感動した。
やっぱり幸徳はすごいわ。
この「死刑の前」は、幸徳が処刑される寸前まで書いていて、途中で終わっている。
本当は五章の構成で書く予定だったようだが、一章が書き終わったところで死刑が執行されたようだ。
幸徳は、万物は無常であり、生があれば死があるのは当たり前で、当たり前と受けいれるべきと言う。
そのことを踏まえて、
「故に、人間の死ぬのは、もはや問題ではない。
問題は、実に、いつ、いかにして死ぬかにある。
むしろ、その死にいたるまでに、いかなる生をうけ、かつ送ったかにあらねばならない。」(523頁)
と述べる。
さらに、今日の社会では、長寿を全うするのがなかなか難しいこと、ゆえに短命も甘受すべきことを説き、
「わたくしは、長寿かならずしも幸福でなはなく、幸福はただ自己の満足をもって生死するにありと信じていた。
もしまた人生に、社会的価値とも名づけるべきものがあるとすれば、それは、長寿にあるのではなくて、その人格と事業とか、四囲および後代におよぼす感化・影響のいかんにあると信じていた。
今もかく信じている。」(524頁)
と述べる。
これからの言葉には、本当に深い感銘を受けた。
さらに、幸徳は、古来より死刑に処される人間が必ずしも罪人・悪人とは言い切れないということを述べ、いろんな歴史の事例を挙げる。
その中で、
死刑となった、と述べている箇所に、私は異様な感慨や感銘を受けざるを得なかった。
木内宗五は、もちろん佐倉宗吾のこと。
幸徳は、これらの人のことが念頭にあった人だったのだなあということに、歴史が一本につながる気がした。
社会主義とかアカとか、そういうレッテルで、同時代から幸徳は忌み嫌われたのかもしれないけれど、もちろん社会主義者でもあったろうけれど、同時に、幸徳は根っからの「義人」「義士」だったのだと思う。
「愛国者」であり、「草莽の志士」だったのだと思う。
惜しかったなあ。
せめて、この「死刑の前」だけでも完成させる時間が与えられていればと思う。
時折、また読み直そう。
俺も、死に至るまで、いかなる生を受け、送るか。
また、いかに周囲や後世に人格・事業が感化・影響を与えることができるか。
そのことを、よくよく心がけて生きよう。