元和の大殉教図

二年ほど前、長崎歴史博物館で、「元和の大殉教」の絵を見た。

(以下はその時の感想)

元和の大殉教を目撃した修道士(ひょっとしたら日本人?)がスケッチし、マカオに逃れて油絵で完成させたもので、ローマに送られ、今でもローマのジェズ教会に保管されているらしい。

今回、たまたまこの博物館の展示に出展されていて、見ることができた。

凄惨な場面もさることながら、とても印象に残ったのは、見物人の中に、多くの西洋人がいたことである。

見物客の中の西洋人は、皆、なんだかにやにやとした顔で、なんらの心の痛みも感じてない、傍観者か見物人のような様子だった。

見物人の中に、日本人の女性たちが頭をうなだれ、合掌しているのと比べても、その冷酷さや鈍感さに驚かされた。

実に、戦慄すべき情景だと思った。

その西洋人たちは、おそらくはオランダ人やイギリス人だろうか。
殉教しているカトリックの人々とは、また違う系統の人々で、他人事として眺めていたのだろう。

だが、本来ならば、彼らにとって、同じキリスト教徒であり、似たような西洋文明の人間だったろうに、この同情や思いやりの欠如は何だろう。

おそらく、この絵を描いた修道士も、その印象が強烈だっただけに、殉教している人々に合掌する日本人の女性達と同じ絵の中に、どうしてもこの酷薄な西洋人たちを書かなければ気がすまなかったのだろう。

まぁ、でも、それは、何もオランダ人や西洋人に限ったことではなくて、人間というものにしばしばよくあることかもしれない。

中国の神舟が有人宇宙飛行に成功した時に、一緒に喜ぶよりもケチをつけたりやっかむ日本人が多かったぐらいは、まぁそんなに害のないことかもしれないが、「元和の大殉教」と同じような立場に、日韓中のいずれかの国が立たされたら、この絵の見物人の西洋人と似たような反応を示すのかもしれない。

そもそも、ベトナム戦争イラク戦争においても、日本人や韓国人では、たしかに反対する人もいたけれど、何の痛痒もなくアメリカの片棒を担ぐ人々も大勢いたわけで、それらの人々は、この絵の見物の西洋人とまったく同じようなものだろう。

なんというか、そういうことを考えると、人間に絶望する気もする。

一方で、殉教に際しても節を曲げなかった人々や、そうした人々に合掌し、あるいは涙している人々が、多少は人間への絶望を救ってくれるだろうか。


そういえば、アンネ・フランクをかくまっていたおばあさん(ミープ・ヒースさんのことだろうか)は、キリスト教はもはや信じない、あれほど多くのユダヤ人が迫害され、殺されているのに、誰一人としてキリスト教徒は彼らを助けようとしなかった、世界にはきっともっと良い宗教があるはずと思うが、キリスト教はもはや信じない、ということを語った、という話を、ある人から聴いたことがある。
私は、それを本で確かめてないし、テレビ番組とかで直接聴いたわけではないけれど、気持ちはわかるような気がする。

元和の大殉教図に描かれている、見物人の西洋人みたいな連中は、もはやキリスト教を語る資格はないだろうし、あんなのがキリスト教徒ならば、そこには幻滅があるだけだろう。
だが、それを言うのであれば、残酷な刑を執行し、あるいは見物している、仏教徒もそうだったのかもしれない。

人間の、他人事に対するこの鈍感さや残酷さというのは、いったい何なのだろう。



「元和の大殉教」図は、いろんなことを考えさせる、生々しい迫力のある絵だった。

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