BS ドキュメンタリードラマ ニュルンベルク裁判

三年ほど前だが、BSで「ドキュメンタリードラマ ニュルンベルク裁判」という番組があっていた。
いまは動画で見れるようである。
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E8%A3%81%E5%88%A4%E3%80%80%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E&hl=ja&rls=com.microsoft:ja:IE-SearchBox&rlz=1I7SUNC_ja&prmd=iv&source=univ&tbs=vid:1&tbo=u&ei=BScKTYD-MsjTrQfAgpjVDg&sa=X&oi=video_result_group&ct=title&resnum=2&ved=0CDIQqwQwAQ


(以下は、その番組を見た時の感想)


暗澹たる気持ちになった。
裁判で、証拠として提出されたさまざまな映像や、証人たちの証言。
あまりにも痛ましく、想像を絶した酷さ。

見ていて、いくつか、あらためて驚かされたことがあった。

ひとつは、ナチスの指導者の何人かの、その反省のなさである。
ゲーリングなど、特に悪魔的な感じまでする。
東京裁判における日本の指導者と、やっぱりその点はずいぶん違う気がする。

良くも悪くも、ナチスの指導者たちは、誤った思想と確信に満ちていて、確信犯的に諸々の戦争や収容所政策を行っていたと思う。
日本の指導者は、そこまで確信犯的なものは良くも悪くもなくて、なんとなく時勢や制度的なものに操られたり縛られて、気がついたらああいう無謀な敗戦になっていたという感じだったと思う。
どちらが良いとか悪いとかいうつもりはないけれど、獄中で悔い改めて念仏を称えた東条さんに比べて、ニュルンベルク裁判を最後まで嘲笑したゲーリングの悪というものは、本当に底知れない気がする。

ヒトラーヒムラーが裁判の席にいたら、あるいはゲーリング以上だったのだろうか。
この世には、本当に絶対悪というものがあるのかもしれない。

また、ドイツの軍の上層部が、ヒトラーを天才と信じ込んていたらしいことが、軍部の人々の証言からうかがわれて、それもとても意外だった。
後世から見ると、単なる狂人にしか見えないけれど、同時代の人を圧倒的に魅了し支配する何かがヒトラーにはあったのかもしれない。
実際にヒトラーが天才だったかはともかく、軍上層部がそう信じ込むだけの、圧倒的な知識やひらめきがヒトラーにはあったのだろう。
”天才”というものは、ずいぶん危険な、やっかいなものなんだろうなと思った。

あと、多くのナチスによって破壊された地域や、強制収容所の映像を見て、あらためて絶句した。
人間が、あんなにも無意味な無体な破壊と殺戮ができるということを思うと、人間って何だろうと暗澹とした気持ちになる。

もちろん、ナチスだけが悪いわけじゃないかもしれない。
イギリスやアメリカだって無差別爆撃をドイツや日本に行っているし、日本には原爆まで投下した。
ソビエトだって、ポーランドには随分無体なことをしているし、自国内での粛清もはんぱじゃなかった。
日本も、731部隊など、ナチス並の悪魔的なことをしでかしている。

しかし、やっぱり、ニュルンベルク裁判を見ていると、ナチスというものは、本当に異常な、常軌を逸した現象だったように思われる。
ナチスの高官が、「三百万人のユダヤ人を殺したというのに間違いはありませんか?」と裁判でたずねられて、「いいえ、たったの二百万人だけです」と答えていたのには、その感覚の麻痺に、本当に暗澹たる気持ちになった。
そう、ナチズムには、圧倒的な感覚の麻痺やモラルの麻痺という現象が終始つきまとっていると思う。
その感覚の麻痺は、なんだか、治癒不能だったようにすら思われる。

しかし、よく考えてみたら、感覚の麻痺の程度が並外れていたというだけで、ナチズムと程度は違えど、感覚の麻痺はあの時代の他の戦争参加国にも通底していたし、その後の歴史にも見られる要素なのかもしれない。
ナチスの場合、規模があまりにも大きかったから目だったけれど、ひょっとしたら、当時の日本やアメリカにとっても、ぜんぜん他人事じゃなくて、それをナチスは露骨で醜悪な形で見せ付けていただけだったのかもしれない。

人間が、あのようにもなりうるということを示したという点でナチズムの歴史は、今も人類の歴史の上に暗い影を投げかけているのかもしれない。
人間の感覚というものは、場合によってはとことん麻痺して、正気を失ってしまう。
それは、もはや終わった過去とは言い切れないのかもしれない。

アルカイダヒズボラ、そしてアメリカやイスラエルの、一部の人々や軍や指導者には、同様な感覚の麻痺が今日にも見られるような気がするし、それらに対して批判精神を持たないとしたら、同調している国々(日本も含めて)も、相当に感覚が麻痺しているのかもしれない。

おかしなことには反対できる時に反対して、常に正気を失わないようにする努力が、人間には、特に近代や現代に生きる人間にとっては必要なのかもしれない。
また、いろんな古典や、啓蒙近代などから、人間としての理想や常識やモラルや愛を、繰り返し学ぶことも、常に大事なのかもしれない。

ナチスのあまりにも醜悪な戯画は、過ぎ去ったものではなく、人間が抱える闇と教訓を、極端な形で提示したものと受け止めるべきなのかもしれない。
それを忘れて、単に過去のものだとしてしまったら、ニュルンベルク裁判の教訓を、人間は生かしきれないかもしれない。
番組を見ていて、そう思った。