死への恐怖がない三つの場合のどれだろう

■「死への恐怖ない」秋葉原事件公判で加藤被告
(読売新聞 - 12月15日 18:56)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101215-OYT1T00831.htm



死への恐怖がないという場合、おそらく人には三種類あると思われる。

ひとつは、悔いなく精一杯生き、道徳をきちんと実践して生きてきて、なんら死後に心配なく穏やかな気持ちで死を受け入れられる場合。
テーラワーダ仏教におけるすぐれた在家や僧侶の人は、そのような境地かもしれない。

ふたつめは、必ず救うと呼び、働きかけてくださる如来の御慈悲を聞いて、安心立命を得ている場合。
浄土真宗妙好人などがこれに当たる。
私はよく知らないけれど、キリスト教などや仏教の他宗派にもいろいろ似たようなことはあるのかもしれない。

みっつめは、死後のことを知らず、死んだら無になると思っており、自分の行為の報いは存在しないと思っているので、死を恐ろしいと思わない場合。


現時点での死への恐れがないという点では、一見、一と二と、三つ目は同じように思えるかもしれないが、死後の世界を前提とした上で恐れがない一と二と、死後をまったく想像しない三とでは、だいぶよって立つ認識が違う。

現代科学においては、たしかに死後の世界があるかどうかは立証できない。
しかし、科学が言っていることは、立証できない、検証できない、ということのみであり、死後の世界が存在しないということではない。
正確に言えば、科学的には死後の世界はあるかないかわからないというだけであり、ないと断言はできない。

仮になかった場合は、悪業を積んでも死後に報いを受けることはないかもしれない。
しかし、仮に死後の世界があれば、自分の行為の報いを受けることになるかもしれない。


この被告が、上記の三つのいかなる意味において死に対する恐怖がないと言ったのか私にはわからないが、もし三つめであれば、せめて生きている間に回心して、自分を見つめ直してせめても心を清め育てるか、あるいは念仏申す身となるか、いずれかした方が良いのではないかと思う。
そうでなければ、万一死後の世界があった場合、後生はとんでもないことになるのではないか。


死後のこと・後生についてきちんと考えることは、本当に今を生きるということはどういうことかということを教えてくれることだと思う。