劉暁波氏の最後の陳述 「私に敵はいない」 日本語全訳

劉暁波 「私に敵はいない」 (日本語全訳)



 50を過ぎた私の人生で、(天安門事件の起きた)1989年6月は大きな転機だった。

 文革後に復活した大学入試で私は最初の大学生(77年入学)になり、修士課程、博士課程まで学業は順風満帆だった。卒業後は北京師範大学に残って教員を務め、教壇ではとても学生に歓迎される教師だった。同時に公共の知識分子でもあり、大きな反響を呼んだ文章や著作を80年代に発表してきた。頻繁に各地の講演会に呼ばれ、欧米に招かれて客員研究員になった。

 私が自分に求めたのは、人としても作家としても誠実に、責任を負い、尊厳を持って生きることだった。米国から戻り、八九運動(民主化運動)に参加したことで、私は「反革命宣伝扇動罪」で投獄され、愛する教壇を追われ、国内で二度と文筆、講演活動ができなくなった。異なる政治的見解を発表し、平和的な民主化運動に参加しただけで、一人の教師が教育の場を失い、一人の作家が発表の権利を失い、一人の公共の知識人が公開の場で講演する機会を失った。これは私個人にとっても、改革解放から30年が過ぎた中国にとっても、悲しい出来事だ。

 考えてみると、六四(天安門事件)後の劇的な経験は意外にもすべて法廷とかかわっている。公の場で話した2回の機会はいずれも北京市中級法院の法廷が与えてくれた。一つは1991年1月、もう一つは今回だ。この2回の罪名は違っているが、本質は基本的に同じで、ともに言論を理由にしている。

 20年が過ぎても、無実の罪で死んだ六四犠牲者の霊はまだ生き続けている。六四によって異なる政治的見解を持つようになった私は祖国で発言権を失い、外国メディアを通してのみ発言でき、長く監視されてきた。95年5月〜96年1月の監視居住、96年10月〜99年10月の労働教養、そして現在、再び政権の敵意によって被告席に座らされている。

 しかし、私の自由を奪った政権にまだ言いたい。20年前にハンスト宣言で表明した「私に敵はいない、憎しみの気持ちもない」という信念に変わりはないと。私を監視し、逮捕し、尋問してきた警察、起訴した検察官、判決を下した裁判官はすべて私の敵ではない。監視や逮捕、起訴、判決は受け入れられないが、当局を代表して私を起訴した検察官の張栄革と潘雪晴も含め、あなた達の職業と人格を私は尊重する。12月3日にあった尋問で、私は2人の尊重と誠意を感じることができた。

 憎しみは知恵や良識をむしばみ、敵意は民族精神を害し、生きるか死ぬかの残酷な闘争をあおり、社会の寛容と人間性を破壊し、自由と民主に向かう国家の道のりを阻む。だから私は個人の境遇を超え、国家の発展と社会の変化を見渡し、最大の善意で政権の敵意に向き合い、愛で憎しみを解かしたいと思う。

 誰もが知るように、改革開放は国家の発展と社会の変化をもたらした。私から見れば、改革開放は「階級闘争を要とする」毛沢東時代の執政方針を捨て、経済発展と社会の調和に集中するものだった。「闘争哲学」を捨てる過程もまた、徐々に敵意を弱め、憎しみの感情を消し、人間性にしみ込んだ歪みを取り除く過程だった。

 まさにこの過程で、改革開放のためにゆとりある国内外の環境が整えられた。人と人との愛情を復活させ、異なる利益や価値観を共存させるため、柔軟な人間性の土壌をつくった。これによって、国民の創造力の進歩と愛情の回復が励まされた。外国に対して「反帝国主義・反修正主義」の考えを捨て、国内で「階級闘争」の考えを捨てたことは、中国の改革開放が今まで持続できた大前提だったと言える。経済が市場主義に向かったのも、文化が多元化に向かったのも、秩序が徐々に法治になったのも、みな敵意の弱まりのおかげだ。

 最も進歩が遅い政治の領域であっても、敵意の弱まりによって、政権は社会の多元化に包容力を増すようになった。異なる政治的見解を持つ者への迫害も大幅に減り、八九運動への評価も「動乱」から「政治の風波」に改まった。

 敵意の弱まりは政権にゆっくりと人権の普遍性を受け入れさせ、中国政府は98年、国連の2大国際人権条約への署名を約束し、普遍的な人権の基準を認めることを示した。2004年には、全人代憲法を改正し、「国家は人権を尊重し、保障する」と初めて明記し、人権が法治の基本的な原則の一つになったと示した。同時に、現政権は「以人為本(人間本位)」「和諧(調和の取れた)社会」を唱え、中国共産党の執政理念の進歩を見せた。

 私はあくまで無罪で、罪を問うのは違憲だと考えているにもかかわらず、自由を失った1年余りの間に2回の拘禁を経験した。4人の警官と3人の検察官、2人の裁判官の事務処理には、こちらを軽視する態度はなく、期限を過ぎず、自白を強制することもなかった。彼らの態度は平和的で理性的で、常に善意を見せていた。私は6月23日に監視居住地から北京市公安局第一看守所(拘置所)、通称「北看」に移された。北看での半年間、私は拘置方法の進歩を見た。

 私は96年に古い北看(北京市宣武区の半歩橋)で過した。十数年前の北看と比べ、現在の北看は施設と管理の両面で大きく改善されていた。特に北看が創始した人間性に基づく管理方法は、入所者の権利と人格の尊重を基礎にしていた。

 柔和になった管理は刑務官の言動や「(構内の)温声放送」、雑誌「悔悟」、食事前や睡眠時間前後の音楽に表れていた。こうした管理は入所者に尊厳と温かさを感じさせ、秩序維持の自覚を持たせた。入所者に人間的な生活環境を与えただけではなく、訴訟環境と心理状態を大きく改善した。私の部屋を管理していた劉崢刑務員とは親身な交わりがあった。彼の入所者への尊重と関心は管理の細部に表れ、言動ににじみ出ており、温かさを感じさせた。誠実で正直で、責任感があり、親切な劉刑務員と知り合ったことは、北看での幸運だったと言っていいだろう。

 これらの信念と体験により、私は中国の政治の進歩は止められないと堅く信じているし、将来の自由な中国の誕生にも楽観的な期待が満ちあふれている。自由へと向かう人間の欲求はどんな力でも止められないのだから、中国は人権を至上とする法治国家になるだろう。こうした進歩が本件の審理にも表れ、合議制法廷の公正な裁決、歴史の検証に耐えうる裁決が下ると期待している。

 もしこの20年で最も幸せな経験を話すとすれば、妻の劉霞の無私の愛を得たことだ。今日、妻は傍聴できないが、それでも私は言いたい。愛する人よ、あなたの私への愛はいつまでも変わらないだろうと固く信じていると。

 これほどの長い間、自由のない暮らしの中で、私達の愛は外部環境が押し付ける苦渋に満ちていたが、依然として後味を思い返せば際限がない。私は有形の監獄で服役し、あなたは無形の心の獄中で待ち続ける。あなたの愛はまさに高い塀を越え、鉄格子を貫く太陽の光だ。私の肌をなで、細胞を温め、心の平穏と純潔、明晰さを終始保たせ、獄中のすべての時間を意義あるもので満たしてくれる。

 一方、あなたへの私の愛は痛みと苦しさで満ち、時として重さのあまりよろめいてしまう。私は荒野の石ころで、暴風雨に打たれるがままだ。冷たくて誰もあえて触ろうとはしない。しかし、私の愛は堅く鋭く、あらゆる障害を貫くことができる。たとえ粉々に砕かれても、私は灰燼であなたを抱きしめることができる。

 愛する人よ、あなたの愛があるからこそ、私は来るべき審判に平然と向き合い、自分の選択を悔やまず、楽観して明日を待つことができる。私は望む。私の国が自由に表現できる場所となり、すべての国民の発言が同等に扱われるようになることを。

 ここでは異なる価値や思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、平和的に共存する。ここでは多数の意見と少数の意見が平等に保障され、特に権力者と異なる政治的見解が十分に尊重され、保護される。ここではあらゆる政治的見解が太陽の下で民衆に選ばれ、すべての国民が何も恐れずに政治的見解を発表し、異なる見解によって政治的な迫害を受けることがない。

 私は望む。私が中国で綿々と続いてきた言論弾圧の最後の被害者になることを。今後、言論で罪に問われる人が二度と現れないことを。表現の自由は人権の基礎で、人間性の根源で、真理の母だ。言論の自由を封殺するのは、人権を踏みにじり、人間性を窒息させ、真理を抑圧することだ。

 憲法が与える言論の自由を実践するためには、公民としての社会的責任を果たさなければいけない。私がしてきたあらゆる事に罪はない。たとえ罪に問われても、恨みはない。

 皆さんに感謝する!

 2009年12月23日 劉暁波


(上記の文章は以下よりの転載です。(転載自由との許可を得ています))

出典
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1638632079&owner_id=20659663&comment_count=2
http://blog.livedoor.jp/rftibet/

中国語原文
http://www.bullogger.com/blogs/stainlessrat/archives/351520.aspx