梯実円「精読・仏教の言葉 親鸞」よりメモ

梯実円「精読・仏教の言葉 親鸞」(大法輪閣)よりメモ

「小ざかしい人間のはからいを離れて、如来が自力の行を選び捨てられたごとく自力の行を振り捨て、
如来が念仏の一行を万人の道として選び定め「お願いだから、わが名を称えてくれ」と仰せられた願いに従って、
ひたすら念仏することを「ただ念仏する」というのである。
言いかえれば、心を静めて称えなければならないとか、身を浄めて称えなければならないとか、念仏の功徳を理解して称えなければならないとか、いつも如来や本願を思いながら称えなければならないなど一切考えずに、
ひたすら念仏することである。
また、念仏したことを手柄にして、これで救って下さいと願ったり、念仏した功徳によって現世でさまざまな利益を受けたいと願ったりすることを一切ふり捨てて、ただ如来の願いだから念仏し続けるのである。
自分の願いを果たし遂げる手段として念仏することを自力の念仏といい、如来の願いに従って念仏することを他力の念仏というのであって、このように自力を捨てて他力に帰していることを「ただ念仏する」といわれたのであった。」(63頁)


「要するに他力とは何もしないことではなくて、真剣に聞法し、念仏し、敬虔に礼拝していることを「如来われを動かしたまう不可思議の徳の現われ」と仰いでいることをいうのであった。
念仏を励むことが自力なのではなくて、念仏しないことが自力のはからいに閉ざされていることなのである。
また、たまわった念仏を自分が積んだ功徳と誤解していることを自力というのであって、念仏する身にしていただいていることを慶ぶのを他力というのである。」(134頁)


「生きることの意味と死の意味を確認して、自信を持った人生、納得のいく死を迎えたいという思いを仏教では道心(菩提心)という。
生死を超えるまことの道を求める心である。」(59頁)