福沢諭吉の名号論

福沢諭吉の名号論 (福翁百話 第九十四話より)



「之(これ)を宗教談に喩(たと)えて云わんに、仏者の崇拝する如来なるものは、本来その物あるに非(あら)ず。凡(およ)そ人生にあらん限りの善心美徳を想像して、その至善至美の境遇を画(えが)き、之に附するに如来の名を以てするまでのことなれば、その名称も亦一に限らず。
徳を表するには徳の名あり、智を表するには智の名あり。明(めい)と云い、光(こう)と云い、不可思議と云い、十方(じつぽう)無碍(むげ)と云い、無辺洪大等、様々の文字(もんじ)はあれども、要するに至善至美、至明至大の徳を表して之を仏とし仰ぐものにしてその趣(おもむき)は、俗界にて国民の公心を代表する者を政府と名(なづ)けて、その功徳(くどく)即(すなわ)ちその政法を仰ぐの情に異(こと)ならず。
故に理屈より云うときは、仏徳美にして大なりと雖(いえど)も、之を無形の間に観ずるのみにして可なり、必ずしも拝むに及ばず。
一国の政法公明正大なりと云うも、唯(ただ)これを便利として依頼すべきのみ、必ずしも敬意を表するに足らざるが如くなれども、如何(いかん)せん、無智無識の凡俗世界を導くには、深遠の理を以てすべからず、唯これに形を示すの一法あるのみ。
真宗の本尊を拝むに、木像よりも画像を可とし、画像よりも名号(みようごう)を貴(たつと)むの説あり。
金箔(きんぱく)を附けたる木像を安置して仏徳を表するが如きは、単に俗眼(ぞくがん)を惹(ひ)くの方便のみ。仏教の本意に非ざるが故に、止(や)むことなくんば一歩を進めて画像にするこそ淡泊なれ。
画像も尚お形を存して面白(おもしろ)からざるが故に、寧(むし)ろ南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の六字のみにすれば更(さ)らに美なりとの意味にして、真実を云えばこの六字の名号も無用なり、念仏もなく、寺もなく、仏壇もなく、坊主もなく、経文(きようもん)もなく、一切虚無の間に仏徳の存するものあるべし。
我輩の至極(しごく)感服する所にして、この辺に心を安んずるは安心の高きものなりと思えども、唯独(ひと)り自(みず)から思うのみ、之を人に語りて真に会心する者は、坊主の中にも甚(はなは)だ多からず。
況(いわ)んや滔々(とうとう)たる凡俗小児の群集に於(おい)てをや。
如来は金箔に由(よつ)て光り、画像に写りて尊(たつと)く、名号に寓(ぐう)して現われ、目に見て拝み、耳に聞て悦(よろこ)び、兎(と)に角(かく)に耳目(じもく)直接のものを尊敬するその敬意に誘(いざな)われて、知らず識(し)らずの間に仏徳信心の一念も発起(ほつき)すべきのみ。
是(これ)即ち仏教の本義如何(いかん)に拘(かか)わらず、幾千年来今日に至るまでも木像、画像、名号等の雑物を要する所以(ゆえん)にして、畢竟(ひつきよう)人生の品位尚(な)お未(いま)だ上進せざるの証として視(み)るべきものなり。政界の事情も亦斯(またかく)の如(ごと)し。」

「仏教開始以来稀(まれ)にその真を知る者なきに非(あら)ざれども、今に至るまで画像は扨置(さてお)き木像をも廃するを得ず。その然る所以(ゆえん)は何ぞや。
仮令(たと)い木画二様を擯(しりぞ)けて名号のみにしたればとて、その名号も又尚(な)お有
形にして未(いま)だ真ならず。
一方には未だ真を得ずして、他の一方には俗眼(ぞくがん)適当の木像画像を廃して凡俗の信心を失う、智者の事に非ざるが故に、今尚お三様を存して、その孰れを拝するかは信者の安心如何(いかん)に一任するのみ。」