梯実円和上 御法話 メモ (2008年5月)

(2008年 5月12日 梯実円和上の御法話のメモ)



親鸞聖人が、造悪無碍に対して、どのように言われているかを、明法房の往生についてのご消息の一文を丹念に引きながら。

当時、関東には、忍性菩薩の戒律復興の運動が起こった一方で、その反動から、造悪無碍という、悪をしても念仏さえ称えていればかまわない、という主張の人々が現れた。

結論からいえば、親鸞聖人の立場は、そのどちらとも違った。

いわば、煩悩具足の凡夫というのは、無明の酒に酔っているようなもの。

その凡夫が、念仏を称えるようになり、仏法を聞くようになるのは、本当に不思議なこと。
よく、なぜ最近は仏法を聴聞する人が少なくなったのか?と尋ねる人がいるけれど、そんなことは不思議でもなんでもないことで、逆に、ひとりでも仏法を聴く人がいるということが、不思議なことだと御聖教には言われている。

で、せっかく、阿弥陀仏の本願念仏という薬をいただいて、やっと少しずつ無明の酔いからさめるようになってきた。
だんだんと、仏の教えのおかげで、善悪のけじめもつけてもらって、わかるようになってきた。

しかるに、そのようにせっかく薬をいただいた人が、薬があるから毒を好むなんていう馬鹿な話があるだろうか。
自分で、ますます、思い通りに無明の酒を好んで飲んで、酔いを深くするようなことが、せっかく信心を得て薬を飲むようになった人間にありえるだろうか?

自分の心にまかせるのは自力で、如来のおおせを聞くのが他力。
自分にまかせるな、仏様にまかせなさい、というのが、浄土真宗の教え。
だから、思うまじきことは、思うべきではないし、すまじきことは、することはすべきではない。
浄土門の教えは、如来の思し召しのままであれということで、私の心のままでいいなんてことじゃない。
煩悩具足の凡夫ということを、隠れ蓑にしてはならない。
そんなものは、浄土真宗でもなんでもない。

浄土真宗は、他律的に徳目をいくつも箇条で並べて押し付けるようなものではないけれど、ひとりひとりが、如来のおおせを聞いて、自分なりに受けとめて、自分なりに育っていこうとする生き方。
そうした生き方が、本当に如来のおおせを聞いて信心念仏をいただいているならば、出てくる。
浄土真宗は、自律的な倫理である。
「しるし」(証し)が出てくるものである。

弥陀の本願が、善人悪人を選ばず、というのは、自分の他に善い人と悪い人がいて、そのどちらも如来が受けとめてくれる、ということではない。
そうではなくて、両方とも、この私のことである。
この私に善い時もあり、悪い時もある。
そのどちらも如来が包んでくれる。
ただし、そうであればこそ、なるべく善い時の私を多くして、悪い時の私を少なくしていくのが慎みというもの。
もちろん、どちらの私も、仏は包んでくださる。
しかし、そう聞けば聞くほど、ますますつつしんで生きていくのが、念仏者というもの。


できるだけ良い縁にあいなさい、悪い縁はつつしんで遠ざかれ。
曇鸞大師の言葉を引きながら)

信心は一時に得るけれども、その教えに育てられていくのは、長い時間がかかる。
無明の酔いからさめるのは、一生聞法。
一生聞法して、育っていく。
育つのはゆっくりであり、時間がかかる。
自分なりに育っていこうとする生き方が、本当の念仏者には出てくるはず。


「仏法に厭足なし」
どれだけ聞いても、終わりということはないし、一生聞いてお育てにあずかっていく、


(本当に、智慧のたいまつを一本いただいたような、すごい智慧がぼんと飛び込んできたような、そんな気がする、本当に、ありがたいご縁だった。私も、煩悩具足の凡夫ということを、決して隠れ蓑にせず、なるべく無明の酔いからさめるよう良い縁に近くづくことに努め、決して酔いを深めるような悪縁には近づかず、つつしみを持って生きていこう、自分の思いにまかせてわがままに生きるのではなく、如来のおおせを聴いて、そのとおりに生きるように努めていこうと思った)