マイケル・モーパーゴ『アーニャは、きっと来る』を読んで

マイケル・モーパーゴ『アーニャは、きっと来る』を読んだ。
毎度のことながら、モーパーゴ作品にはしばしば泣かされるのだけれど、ラストはやっぱり泣かされた。
フィクションだが、いくつかの経験やさまざまな当時の証言や出来事が組み合わせられて基になって書かれているらしい。
第二次世界大戦中のドイツ占領下のフランスの、スペイン国境に近い小さな村が舞台で、スペインに亡命しようとするユダヤ人の子どもたちと、なんとか逃そうとする村人たちと、一人は一人はそんなに悪い人ではないけれども組織の命令上ユダヤ人を逮捕せざるを得ないドイツの兵隊たちが描かれている。
人間の善意や勇気と、組織の非常さや冷酷さと、戦争の愚かさと、いろんなことをあらためて感じさせられる、良い作品だった。
今年映画化もされたそうで、日本でも11月から上映されるそうである。


映画CM https://www.youtube.com/watch?v=B5AoAclyP8Y


https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%A8%E6%9D%A5%E3%82%8B-Michael-Morpurgo/dp/4566014525

 

Nスペ『アウシュビッツ 死者たちの告白』を見て

先日録画していたNスペの『アウシュビッツ 死者たちの告白』を見た。
「ゾンダーコマンド」つまり、ユダヤ人でありながら、ナチスの手先としてガス室の運用や死体の処理に携わった人々が書きのこしたメモの数々についての特集だった。
アウシュビッツガス室の付近で、地面の下から、何回に渡り戦後になってからガラス瓶に入れたメモ用紙が見つかってきたそうで、劣化が激しく長い間解読不能だったのを、最近のデジタル解析技術の発達で読めるようになったところ、それらが複数のゾンダーゴマンドの人たちの残したメモだったことがわかったという。
同じユダヤ人たちから裏切り者や人殺しと罵られる苦悩などが綴られており、人間にこんな思いをさせるあまりに残酷な仕組みに、視聴しながらあらためてナチスに対する怒りを感じずにはおれなかった。
ゾンダーコマンドの人々は、家族が殺された復讐のため、あるいはなんとしても生きのびるため、恥を忍んでゾンダーコマンドとして生きながらえていた様子がメモには綴られていた。
ナチスは出身地や世代が異なるゾンダーコマンドを混ぜて使うことにより、ゾンダーコマンド間の不信や猜疑心を煽っていた様子もメモから浮かび上がっていた。
最終的には、それでもゾンダーコマンドの人々は団結し、反乱を起こしてガス室を破壊する計画を進めていたそうだが、どこからか計画が漏れたのか、事前に300人のゾンダーコマンドたちが移送されることになり、おそらくそのほとんどが口封じのために処刑されたそうである。
奇跡的に生き残ったゾンダーコマンドの人たちも、戦後に裏切り者と指弾されることを恐れて、口をつぐんで過ごしたそうである。
ナチスは関連の書類を破棄したため、ゾンダーコマンドの詳しいことは長い間わからなかったそうだが、彼らの内面の声を知る手掛かりとなる貴重なメモの数々の存在をこの番組で知ることができ、驚きだった。
ナチス協力者のユダヤ人は「カポ」と呼ばれ、同胞からも忌み嫌われていたことは、いくつかの関連の書籍などで今まで知っていたけれど、彼らの胸中も苦痛と苦悩に満ちたものだったことが番組でうかがわれた。
人間にこのような思いをさせることが、二度とあってはならないとあらためて思う。
ちなみに、ゾンダーコマンドを描いた作品としては、『サウルの息子』という映画があり、二年ほど前にDVDで見たが、あれほど重い映画は他にはあまり思いつかない。
いつか、この貴重なメモの数々の翻訳が書籍化されれば、ぜひ読みたいと思う。


https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/LGJ43WXVWY/

太宰治 「惜別」「右大臣実朝」を読んで

 新潮文庫太宰治『惜別』には、表題作のほかに「右大臣実朝」も収録されており、太宰の中期の中編小説二編が収録されている。

 

「右大臣実朝」は源実朝を描いた小説で、おそらくは自分自身を実朝に投影しているのか、とても思い入れのある感じで、リアルに描かれていた。

だんだんとやる気を失い文学に耽溺していく実朝と、万事現実的でやや下品な北条一門には、太宰自身と実家の家族や世俗社会の成功者が投影されていたのだろう。

また、実朝が朝廷とその官位に恋い焦がれる様子は、文壇と芥川賞に恋い焦がれた太宰自身をかなり投影してあったのだと思う。

ややぶっきらぼうに唐突に終わるものの、良い作品だったと思う。

戦時下は、繊細なものが軍国主義に押しつぶされていく様子を重ね合わせて読んだのかもしれない。

 

「惜別」は若き日の日本留学時代の魯迅を描いており、魯迅や藤野先生たちを生き生きと描いた、良い作品だった。

発表当時は魯迅マニアの人々から厳しく批判されたそうだが、一般人が魯迅に親しみを持ったり魯迅を読むきっかけになるような、良い作品と私には思えた。

幻燈事件よりも前に、魯迅の精神がゆっくりと移り変わった様子を、それが実際にどうだったかはまた別の話として、作品としては繊細によく描いていたと思う。

戦時下においては、日中の友好を本当に願った、そして戦争ではなく相互の本当の交流や友情を願い描いた、珍しい作品だったのではないかと思う。

 

太宰は、こうした歴史作品をもっと書けば良かったし、もう少したくさん残して欲しかったとあらためて思われた。

 

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藪野祐三『有権者って誰?』を読んで

 

若者向けにわかりやすく書かれた岩波ジュニア新書の本で、面白かった。

 

本書は、有権者をいくつのか種類に分け、通常あまり選挙に行かない「消費者としての有権者」や惰性で投票行動を行う「常連としての有権者」と、市民性を持って公平な視点から投票に臨む「市民としての有権者」に区分する。

 

そのうえで、特定政党の支持者以外の人々が、55年体制下の投票率や政治的関心が比較的高かった浮動票層から、90年代以降はそれらが低い無党派層に変化したことや、

近年の国政選挙の傾向として、自公支持40%前後、野党支持10~18%、支持政党なしが40%前後であること、

かつて70年代までは大学生が15%でその後現在は50%になったものの、イングルハートの『静かなる革命』が予想したような大学進学者の増加が市民性に富んだ人の数を増やすという予測が外れ、居住地の流動化や利益団体からはぐれた個人化の進行やコンビニ化などの諸般の事情によって、市民性が豊かに育つどころか市民性が育ちにくい社会に現代日本がなっていること、等々が指摘されている。

 

慣性の法則を踏まえて、何もなければ「消費者としての有権者」がそのまま続くとして、ではどうすれば「市民としての有権者」となるのか。

過去の消費税をめぐる選挙の事例や、憲法改正問題などに言及しつつ、日ごろから豊かな市民性を育むための地域参加などについて、本書では若干示唆的に最後にその問題についても論じられている。

 

投票に行くべきだと論じる前に、まずは有権者にもいくつかの種類があることや、戦後の有権者の投票行動の変遷や、現在の有権者の置かれている状況を、きちんと整理し認識する必要は、確かにあると思われるし、そうした問題の整理のためには、若者のみならず大人にとっても本書は有益と思う。

「個人化」が進行した無党派層の支持をいかに獲得するかということは、どの政党にとっても今後ますます重要になるのだろうけれど、それは極めて難しいことなのかもしれない。

簡単な解決方法は存在せず、地道に市民性を豊かにしていくような取り組みを各自ができるところで行っていくことしか、日本の政治を少しでもマシなものにしていく方法もないのだろうと、本書を読みながらあらためて思った。

 

 

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立憲民主と国民民主の合流の報道を聞いて

立憲民主党と国民民主党の合流がおおむね決まったとのこと。
水面下で調整や交渉に当たった人々の努力は、たぶん外野にはわからないものがあったと思うし、一強多弱で各個撃破されるという状況を脱するためには貴重な一歩だったとは思う。

 

ただ、関係者の方々に今後勘違いしないで欲しいことは、150ぐらいの議席を国会に占めるようになったとして、それだけでは政権交代は少しも近くはならないということである。

 

以前、立憲民主党のある現職の国会議員が、政権交代以前の民主党が130ほどで共同会派でそれぐらいになったので政権交代が見えてきた、と得々と語っていたのを見て、暗澹たる思いをしたことがあった。
2009年の民主党への政権交代は、未知数だったこととリーマンショックの影響が大きかった。
しかも、それが短命政権に終わったことでわかるように、かなりトリッキーな、もともと準備も不十分な政権交代だった。

 

地方議員の数を見ればわかるが、都道府県議は自民党が圧倒的に多く、市区町村会議員は公明・共産・自民が多い。
つまり、民主党系の議員数は、トリッキーに国会議員だけ増やしても、地方の足腰が非常に弱い。
市民社会における浸透度が他政党に比べて非常に弱いということである。

 

自民・公明・共産は、長年かけて培ってきた有権者との付き合いや関係があるのに対し、民主党系はその点がなんとも弱い。
新綱領はまとまったそうなので、きちんとした理念や政策に基づき、地道に足腰を鍛え、市民社会において幅広く根強い支持を得ることができるように、つまり「根」を獲得することができるように、今後は一層努力して欲しい。

 

その点について、ここ最近の様子を見ていても、暗澹たる思いがする。
もちろん、そのような努力している立派な地方議員やスタッフの人々が多いことも多少は知っているのだけれど、それを打ち消すように、須藤元気氏のわけのわからない言動の上の離党や、高井たかし氏のキャバクラ離党事件など、イメージダウンの出来事が最近にも相次いできた。
SNSでも相変わらず、背後から自陣営を攻撃するような発言をする、思慮分別を欠いた議員や候補たちの発言を散見する。
民主党系のイメージを損なっているのは、もはや遠い昔の民主党政権時代の失敗ではなく、あくまでつい最近の振る舞いではないか。

 

分裂から合流というのは、それ自体は力を増して望ましいのかもしれないものの、さらにまた内輪もめのリスクが高まったとも思われる。
今後はくだらぬ分裂(そもそも今回合流した人々の2012年や2017年の分裂は全くの無駄と遠回りだったのではないか)が二度と繰り返さぬよう、理念や政策の共有と、地道な支持の獲得をめざして、安易なトリッキーな政権交代をめざすのではなく、長いスパンで物事を考えて努めて欲しいと思う。

「信じること働くこと カーター自伝」を読んで

『信じること働くこと カーター自伝』を読み終わった。

第三十九代アメリカ大統領のカーターの自伝である。

本書は政治的な回顧録ではなく、もっぱら著者のキリスト教信仰についての本で、信仰を軸にした人生経験の回想が綴られている。

 

読んでいて思ったのは、信仰をこれほど真摯に語る人が、政治家を、しかも大統領をやっていたということへの意外さと驚きである。

聖書の言葉を適宜引用しながら、信仰と人生について深い思索と体験が本書では最初から最後まで真摯に綴られている。

日本の、ろくに聖書や仏典も読んだことがなく、俗臭芬々たる浅い精神の人間しかほとんどいない日本の政界となんと違うのだろうか。

 

カーターにとっては、キリスト教は自分自身の行動指針であり、大統領であった期間も、日々詩編の19編を読み直し念じながら執務にあたっていたそうである。

 

「私が追求している目標は妥当なものか?私は自分の個人的な道徳律、即ち私のクリスチャンとしての信仰と私の現在の境遇における義務に基づいて正しいことをしているか?そして最後に、私に与えられた選択肢に基づいてベストを尽くしたのか?もしこれらの問題点をすべて神に示した上で、私に駅る限りで最善の決断を下すならば、物事はたいていうまくいく。たとえ、私にできるすべてをやった上でなお失敗するならば、「それならそれでよい」と言うことが許されていることを私は知っている。問題を神の御手にゆだねることは、結果がいかにあろうとそれを受け入れることができる心の平安を私に与えるのである。」(116-117頁)

 

このような自省と信仰で、万事を考えていたそうである。

 

このようなカーターの精神は、プレインズという南部の田舎町で敬虔な信仰を持つ両親によって培われたことが本書には記されている。

まるでアメリカの昔のドラマに出てくるような、教会を中心としたあたたかな、町全体が一つの家族のような、素朴で敬虔な故郷だったことが記されている。

カーターの父は農業のかたわら、教会の日曜学校の先生を務め、地域の福祉にも積極的に努めていたそうで、カーター自身も後年、教会の日曜学校やバイブルクラスの先生をずっと務めていたそうである。

カーターは若い頃は海軍に勤め、原子力潜水艦の乗組員として長く勤務したそうだが、その間も日曜の礼拝には欠かさず参加していたそうである。

その後、父の死をきっかけに故郷に戻り農業用品のビジネスなどをして、それから州議員や州知事、そして大統領になっていったそうだが、一貫して行動指針はキリスト教だったとのことである。

 

時に大きな挫折感を抱え、信仰自体が揺らぎ、疑いを持ったことがあったことも、本書には率直に書かれている。

カーターは、信仰は懐疑と矛盾するものではなく、むしろ疑いも含めて、信仰というものが存在していることだと本書で幾たびか述べている。

また、信仰と行いは両方が大切で、キリストを信じその無償の救いを恵まれた者は、その後はキリストの諸性質を身につけ実践するように努めるべきだということを、主にヤコブ書を引用しながら、再三主張している。

 

そして、イエスの生き方を想起した上で、以下のような問いと行いを提起している。

 

「私たちは皆、自分自身を、自分たちの状況を、そして自分たちが生きている環境をよく見つめ、こう問うべきである。自分の能力と可能性の範囲内で、私にはどんな良くてうるわしいことができるだろうかと。」(278頁)

 

カーターは、上記のことを自ら実践し、大統領退任後は「カーター・センター」を設立し、世界各地の紛争の調停や和解、さらには感染症の撲滅等々に尽力してきたことも本書には記されている。

また、「ハビタット」という団体に関わり、ホームレスなどの人々に住む家を提供する活動を行ってきたことも記されている。

本書を読んでいて感心したのは、こうした活動について、少しも偽善臭がなく、喜びに満ちて書かれていることだと思う。

 

イランの米大使館人質事件によって支持率が急落しなければ、あるいは大統領としてもう少し長く務めることができたのかもしれないが、大統領退任後の活躍を思えば、それもまた神の適切な御計画だったのだろうとカーター自伝を読んでいて思えた。

 

これはオバマ自伝を読んだ時も思ったことだが、このような哲人的な人物が大統領になりうるアメリカというのは、あらためてすごいものだと思えた。

もっとも最近は違うようではあるが、またこうしたアメリカの持つ懐の深さや賢明さが発揮される時代も来ると思われる。

日本は、いったいいつになったらこうした精神的に高貴で深みのある人物が政治的に活躍できる日が来るのだろうか。

 

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手島佑郎『ユダヤ教の霊性 ハシディズムのこころ』を読んで

手島佑郎『ユダヤ教霊性 ハシディズムのこころ』を読み終わった。
とても興味深く、良い本だった。


ハシディズムとは18世紀に起こったユダヤ神秘主義だということぐらいは知っていたが、その詳しい内容はどうも今までよくわからなかったので、本書を通してその概要を知ることができて良かった。


神は常に自分やこの世界を包んでおり、重要なことは神に意識を集中させることで、しかもその瞑想は何も難しいことはなく、職業を持つ普通の人でも可能で、YHVHの神の御名に意識を集中するだけで良い、とハシディズムは唱え、当時のユダヤの貧しい庶民たちに強く支持されたそうである。


私が読んでいて興味深かったのは、「修復」(ティクン)という考え方だった。
ハシディズムでは善も悪も神から発するもので、人間の雑念や欲望も神に本来は発しているが、雑念や悪はそのままでは不純であり、これを本来は神に発する清いものに昇華させる必要があると考えるそうである。
つまり、悪や欲望を否定するわけではなく、かといってそのまま肯定するわけではなく、昇華することによって、悪によって欠陥が生じているこの世界を「修復」するそうで、それが人間の生きている意味だそうである。


また、流浪(言葉のとおりユダヤ人にとっては現実のディアスポラであり、また神から離れた霊的状態も指す)は本来は人間の罪によって生じた状態であるものの、これもまた世界を修復し、己自身が神と再びつながるために積極的に意義を持ったものととらえられていたそうである。
また、メシアの到来は、すでに個々人が贖われて世界が修復されて準備ができたのちに到来すると考えたそうで、そのために普遍的な贖いの前の個人の贖いを重視したそうである。


ハシディズムが、キリスト教とはまた違った、豊かな深い精神の水脈であることが、本書のおかげでよくわかった。
ヨーロッパの思想史を見ていると、キリスト教ギリシャ哲学の影響だけではよくわからない部分があるが、そういったところはやはりユダヤの影響が大きいと思われるし、最も深く、かつ人間の存在に意味を指し示すものだったのかもなぁとも読みながら思えた。


なお、本書では主にハシディズムと禅宗が比較されていたが、一般庶民に広まったことや、神の御名への意識の集中ということでは、善導や法然浄土教と比較することも面白いのではないかと思えた。