時論公論「記録が語る“戦犯裁判”」を見て

先日のNHK時論公論の「記録が語る“戦犯裁判”」に、潁川幸生さんというBC級戦犯として死刑になった方のことが紹介されていた。

https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024081510336

佐世保の相当ダムの建設に米軍捕虜265人が使役され、そのうち53人が死亡したことについて、警備を担当していたため戦犯として捕虜虐待の責任を問われた。

しかし、実際は潁川さん自身は可能な限り捕虜の待遇に気を配り、私費で食料を配ったり、りんごを実家から取り寄せたこともあったそうで、りんごについては米軍兵士から感謝の手紙をもらったこともあったという。

問題は極寒の環境と食料・防寒の乏しさで、それらの状況の中で労役を決定した上層部の責任であり、現場の警備の任にたまたま潁川さんが当たっていただけで、ほとんど裁量がない中では最善を尽くしていたようだった。

ただし、赤痢流行中に残飯を食べていた米兵を殴ってやめさせたことがあったことなどが、言葉が通じないことなどにより誤解を招き、また誰かに責任を追わせて復讐したいという米軍の意向が働き、杜撰な証言とそれに対する反対尋問もなく、理由も示されない中で死刑判決が出て執行されたそうである。

りんごに対する米兵の感謝の手紙が存在していれば、有力な証拠となっていたかもしれないが、家族七人全員が長崎の原爆で死亡しており、手紙もその時に焼失したそうである。

手元にある『世紀の遺書』を見たところ、641頁にたしかに潁川幸生さんの遺書が収録されていた。ただ、家族全員を原爆で亡くしたことは背景として記されているものの、相当ダム建設にまつわる話や冤罪だったことなどの詳しい事情は解説としては記されてなかった。

遺書の中には、無実の罪であるが、家族のもとに早く行って二度と離れないようにしたい旨が書いてあった。

戦犯裁判には理不尽なことや冤罪が多々あったが、その最たる事例と思われた。

三十八歳だったとのことで、若かったのに、遺書には運命を受け入れて今までの人生に感謝する旨が記されており、読んでいてなんとも言えぬ気持ちになった。

二度とこうした戦争や、そして冤罪がないことを願うばかりである。