山本七平『洪思翊中将の処刑』

山本七平『洪思翊中将の処刑』を読み終わった。

洪思翊中将の処刑〈上〉 (ちくま文庫)

洪思翊中将の処刑〈上〉 (ちくま文庫)

洪思翊は、戦前において、朝鮮半島出身でありながら、陸軍中将まで登りつめた人物である。
他の陸軍で高位に登った人物は李王家の人物だったことを考えると、極めて例外的な人物だったそうだ。
だからといって、決して過剰適応の立身出世主義の人物ではなかったようで、この本では、金光瑞や池青天などの抗日運動に身を投じた人々の家族をずっと陰で支えていたエピソードや、創氏改名を断固として断っていたことなども記されている。
また、極めて温厚・冷静で、多くの部下の将兵から慕われていたそうだ。
特段名家の生まれというわけでなく、貧乏な家の出身だったが、卓越した能力と努力で出世したそうである。

それだけでも劇的な人物だが、洪思翊はいわゆるBC級戦犯として死刑になっている。
その罪状は、この本によれば、極めて理不尽な無実の罪としか言えないもので、ジュネーブ協定を調印していなかった日本においては、捕虜を管理する責任体制が欧米とは異なっていたにもかかわらず、全く身に覚えのない捕虜虐待の責任を着せられての処刑だったそうだ。

著者の山本七平は、直接は洪思翊とは面識はなかったそうなのだけれど、敗戦後の捕虜の間に作業に徴用されていて、その時に洪思翊を処刑する建物の建築に携わっていたことを戦後三十年以上経ってから知ったそうである。

この本では、日本による統治、戦争、そしてその後の戦犯裁判という、運命の荒波を次々に受けながらも、終始一貫高潔に自分の生き方を貫いた洪思翊の生き方が、さまざまな証言や生き方から浮かびあがってくる。

洪思翊は若い時から四書五経をそらんじ、即興で漢詩をつくれるほどの教養の持ち主だったそうである。
そのこと自体は、多くの同僚や友人たちがよく記憶していることだったそうだが、それだけでなく、この本では、家族すらもあまり知らなかった、洪思翊は実はクリスチャンだったことと、最後の日々はずっと聖書を読みふけっていたというエピソードが紹介される。
死刑の直前には、牧師に詩編の五十一篇を読んでもらったという話も紹介され、獄中に入る前に旧約聖書を相当に深く読んでいたようである。
遺品の洪思翊の署名入りの聖書が、数奇な運命を経て実の息子に返還されたというエピソードにも、胸打たれるものがあった。

この本を読む限り、洪思翊は全く死刑になるはずがない、冤罪としか思えないわけで、あの時代の戦犯裁判にはしばしばあるとはいえ、格別に気の毒で理不尽に思えた。
にもかかわらず、一言の愚痴も言わなかったそうである。
おそらく、裁判において何も言わなかった姿勢は、聖書におけるイエスの態度に倣ったものだったのかもしれない。

ちなみに、本書では、フィリピンにおいて、昭和十九年末の時点で、敗戦を見越して、洪思翊が極秘裏に部下たちに米軍捕虜を米軍が上陸したら安全に引き渡すべき旨の命令をしており、そのために特に混乱もなく、フィリピンに米軍が再上陸してきた時に、各地の捕虜収容所において米兵の捕虜が米軍に「解放」されたことが資料や証言によって記されている。
著者が言うように、もしこの時に米軍の捕虜たちが日本軍によって殺害されていれば、格段に対日感情は悪化していただろうから、戦後のアメリカの占領政策がそれなりに寛大なものになった背景には、洪思翊の働きもあったのかもしれない。

また、日本の敗戦がある程度予測される時期に、フィリピン方面で捕虜や兵站の総括という困難な役職を引き受けたのは、フィリピン方面の軍隊・軍属に多くいた朝鮮半島出身者と日本の摩擦を緩和するためだったそうである。
さらに、フィリピンの洪思翊の部下には、一人も朝鮮半島出身者はBC級戦犯として処刑されなかったというエピソードも、同書には紹介されていた。

歴史においてはしばしば、人に知られぬところで大きな働きをしたりいろんな人を助けながら、運命によって報われるどころか悲劇的な目に遭う人もいるが、洪思翊の生涯はその最たる例なのかもしれない。
にもかかわらず、不思議と爽やかな印象をその生涯が与えるのは、そのような人柄だったからなのだろうと思う。

日韓併合や戦前の日本のあり方や戦犯裁判について、その矛盾や不条理について、深く考えさせられる一冊だった。