雑感 言葉の力および聖書について

言葉の力というのは、非常に大きいものではないかと私は思う。

結局のところ、人は言葉によって生きるし、その人の人生やいのちの形はその人が触れてきた、あるいは自ら紡いだ、選択した、言葉によって形作られるのではないか。

そう思う。

古典というものは、中でも、非常に強い言葉の力を持つものとして、人類の中で大切にされてきた書籍を言うのだと思う。
そして、数多ある書籍の中でも、格別強い言葉の力を私が感じるのは、聖書である。

聖書というのは非常に不思議な書物で、ともかく言葉の力が強い。

あれこれ自分一人で悩んだり考えたりするよりは、しばらく聖書をひもとき、詩篇箴言福音書などを繰り返し読み味わうほうが、どれほどためになるかわからない。

昨今、人生に苦しみや悩みを抱える人が多いようで、ネットにも随分そういう書き込みや吐露を見かける。
しかし、これはあくまで私の感想に過ぎないけれど、人に相談したところで、あるいは自分の中でいくら考えをこねくり回したところで、十中八、九、あんまり解決にはならないのではないかと思う。
もちろん、人に相談したことによって大きく人生が転回することもありえるとは思うし、自分でじっと考えることも時には大切と思うが、基本的に人間というのは自分も他人もあまり大したことがない誤謬も多いただの人間であり、ぐるぐると同じ円を回るようなものになりがちと思う。
その円に何かしら違う軌道を付け加えるような、外からの衝撃は、やはり「絶対他者」の言葉に出会うしかないのではないかと思う。

そのような、人生にこれまでとは別の発想や軌道を少しでも与えるような「他」の言葉は、おそらくは仏典やコーランなどの中にも多々あるとは思うけれど、聖書というものは最も強力なそうした力を蔵した書物と思う。

福音書や、あるいはその他の聖書中のいくつかの言葉は、やはり人間からはなかなか出てこない、人間を超えたところから出た言葉ではないかと思う。
そうした言葉に向かい合い、耳を傾け、深く味わうことができたときに、人生の迷いの連鎖や錯誤や輪廻から、同じことの繰り返しの軌道から、少しずつ離脱させられていくし、救われていくのではないか。

ただし、難しいのは、これはどの古典の書物についても言えるのかもしれないけれど、聖書というのは本当に読みぬくのが困難な書物だということである。
その深い意味や奥義は、なかなか一朝一夕には開かれない。
したがって、その深い意味を明かし証した多くの解説書や解釈書や、また直接深く味わった人の講話などを聴くことを繰り返し、人生の中で少しずつその奥深い意味が自分にもいくばくか明かされていく、それぐらいに奥深い書物なのだと思う。

そのようにして深く味わった言葉の力というのが、真に人をこの生き難い世の中で生き抜かせ、地の塩・世の光とまで育てていくのではないかと思う。