ヌオリワーラ 『牧場の少女カトリ』

牧場の少女カトリ

牧場の少女カトリ


私が小さい頃、『牧場の少女カトリ』というアニメが世界名作劇場であっていた。
なんとなく覚えているのだが、さっぱりストーリーが思い出せない。
というわけで、その原作のこの本を探して読んでみた。


読み終わった感想は、とても良い作品なのだけれど、この作品をなんと言えばいいのだろう。
最後まで読むと感動するのだが、かといってそのストーリーを、原作を読んでもうまく説明できない。


というのは、児童文学によくあるような波瀾万丈のストーリーがあるというわけでなく、淡々と二十世紀初頭ぐらいのフィンランドの田舎の日常生活が描かれるだけの作品だからである。


『小公子』や『小公女』が模範的な主人公の波瀾万丈のストーリーであるのと比べて、『牧場の少女カトリ』の登場人物たちはいたって普通の人々である。


カトリも、その周囲の人々も、格別模範的な良い人物というわけでもなく、かといって格別悪い人でもない。
ごく普通の人々である。
だらしない主人や、ちょっと下品な使用人仲間もいるが、格別に悪いというわけでもない。
非日常的な出来事が起こるわけでもない。
だが、読み終わると、たしかに心に残る何かが、しっかりとある。


そういう点で、『牧場の少女カトリ』は非常に「渋い」児童文学と言える。


カトリは、貧しいので他の金持ちの地主の家に奉公に行かねばならなくなり、一緒に暮らしていたおじいさんおばあさんと別れて、一人で見知らぬ農場で働くようになる。
はじめは子どもなので当たり前だが、運命に流されるままである。
そのあとも、基本的には、奉公先の都合で、また別の奉公先にやられることになり、そういった意味では運命のままである。
だが、その中で、カトリはしっかりと裁縫を覚えたり、文字の読み書きができるようになる。


何軒か奉公先が変わる中で、比較的親切な居心地の良いところにしばらくいたあと、別の奉公先に行く。
そこがひどいところで、こき使われるだけこき使われ、ろくな食事も満足に与えらない。
完璧にいろんな仕事をカトリがこなすと、主人はさらに無理な要求を次々につきつけ、カトリをぼろぼろになるまで働かせて苦しめる。
それでも、睡眠時間を削ってカトリが仕事が終わった後の夜に織ってつくりあげたきれいな布地を、他の仕事でしばらくカトリがいない間に勝手に主人が盗んで自分の娘の服にしてしまう。


カトリは悲しみと怒りで心がいっぱいになり、しばらく苦しい思いを抱え、それでも働き続けるが、栄養不足と疲労で心身ともに追いつめられる。
カトリは、かつて働いていた奉公先の使用人仲間に手紙を送り、自分の窮状を訴える。
その仲間は、きちんと会いに来てくれて、食べ物を差し入れてくれるようになる。
そして、一時的に休暇をもらって、かつて一緒に暮らしていた自分のおばあさんに会いに行き、自分の苦しみを伝え、相談する。


カトリは、まず、自分のように怒りや許せない心で心がいっぱいの時も、神に祈って良いかを尋ねる。
おばあさんは、創世記の中の、奴隷の身分に落とされのちにエジプトの大臣になったヨセフの物語を引きながら、ヨセフも自分が悲しくつらく怒りでいっぱいの時も、常に神に祈っていた、だからこそ信仰や希望を持ち続けることができた、神の前では人は誰でも罪人なので、どんなに怒りや憎しみで心がいっぱいの時も祈るのには何のさしつかえもない、むしろ祈った方が良い、ヨセフもそうだった、と諭す。


カトリはさらに重ねて、では目上の人には、ものを盗まれても、何をされても、怒ってはならず、祈りによって怒りを愛に変えて従うべきなのかということを尋ねる。
それに対し、おばあさんは、怒らないことと、不正に屈することは違う、不正に屈してしまうのは相手の罪をそのままにすることになってしまう、きちんとしっかりと、盗みに対しては相手に償いをさせるように、自分の正当な権利を正しく主張すべきだということを答える。
そして、聖書を手渡して、聖書を読みなさい、必要なことはすべて聖書に示されている、とカトリに教え諭す。


カトリは、それから奉公先に帰り、しばらく日を選んで待ってから、他の使用人が誰もいない時に、主人に対してはっきりと、自分の布地を主人が盗んだはずであること、自分にその分の糸を弁償して与えて欲しいこと、今度は勤務時間内に自分に布地を織ることを許可して欲しいことを冷静に主張する。
主人ははじめは驚き、拒絶しようとするが、カトリがしっかりと自らの権利を主張し、もし聞かないならば他の人々にこのことを話すというと、それらをきちんと認めてくれるようになった。


そして、契約どおりの奉公の年季があけると、カトリは主人たちがなおも自分たちのところで働かせようといろいろと言うのをきっぱりと断り、その屋敷を去って、別の奉公先に去っていく。


そして、その五年後、二十歳の時に、良い人とめぐりあって結婚することになり、過去のことを思い出し、


「幸福は自分でつくるもの。」


ということを思っている姿が、さらっと末尾に書かれている。


ただ単に運命に流されるだけだった子どもから、しっかりと幸福は自分でつくるもだと認識して努める大人になった姿が描かれて、物語は終わっている。


しっかりと自分の権利を主張し、また本当に困った時は自分から人に助けを求めることができること。
そして、聖書をしっかりと読み、祈ること。
それができるようになることが、この作品で描かれる、本当の「成長」「大人」ということなのだろう。


カトリは最後まで読むと、他の児童文学にはない、深い感銘や感動がある。
小さい頃は何気なくアニメを見ていたが、背後にはしっかりと聖書やキリスト教のテーマがあったんだなぁと今回読んで感心させられた。
児童文学なので、ほんの数時間もあれば読み終わるし、多くの子どもおよび大人に今も勧めたい名作である。


それにしても、この作品、フィンランドでは有名のようだが、それ以外の欧米ではそれほど有名というわけでもないらしい。
日本のフィンランド文学の研究者の方が、戦後ほどない時期に翻訳し、のちにアニメ化されることになって日本では広まったそうだ。
そのあと、アニメが各国語に翻訳されて、世界に広まったようである。
これほど渋い名作を、欧米でもそれほど有名でもない時期に、確実に見出し、翻訳し、アニメ化した、昔の日本の児童文学やアニメ界の水準の高さにあらためて驚嘆と敬意を覚えるし、そのような良い作品をよく気付かぬまま当たり前のように子どもの頃に触れていた自分たちの世代は幸せだったとあらためて思う。