雑感 聖書と歴史から 神が存在するかどうかについて

それにしても、聖書を読んで、神がいるのかどうか、正直、どちらの論理も立てうるように私には思えた。

というのは、神がいるという論理から見れば、聖書は神がいる有力な証拠になりうる。

しかし、神がいないということについても、多くの証拠を集める材料になりそうな気もする。

というのは、士師記においては繰り返し、イスラエルは異民族に攻撃され、苦しめられ、征服される。
そのつど、神の命を受けた士師が現れてイスラエルを救い出すので、神がいることの証拠にもなるのだが、逆に言えば、神がいないからしょっちゅうかくもイスラエルが苦しめられるとも言えるかもしれない。

その後の、列王記や歴代誌に至っては、イスラエルとユダは南北に分裂し、両方とも異民族にしょっちゅう脅かされ、あげくの果てはイスラエルアッシリアに滅ぼされ、ユダもバビロニアに滅ぼされてバビロン捕囚の憂き目にあう。

これは、列王記などでは、神に背き、偶像崇拝や不道徳を行ったことによって神が怒ったからだという。
たしかに、そのようにも思える。
が、逆の立場から言えば、神がいないからこそ、イスラエルは滅亡し、ユダはバビロン捕囚の目にあった、とも言えそうである。

さらには、バビロン捕囚が解除され、神殿を復興したあたりは、たしかに神がいるという証拠になりそうな気もするが、その後のセレウコス朝シリアによるイスラエルへの迫害は、どうなのだろう。
マカバイ記に描かれる、セレウコス朝シリアの暴虐と、それと闘うマカバイ家率いるイスラエルの苦しみは、神がいればこそ、マカバイ家のもとにイスラエルが独立できた、と見ることもできるが、神がいないからこのような苦しみに遭い続けた、と言う立論もできそうである。

ましてや、その後、福音書に描かれるように、ヨハネもイエスも処刑されてしまい、第一次と第二次のユダヤ戦争が起こって、完全にイスラエルが滅亡し、流浪の民となってユダヤ人が祖国を長く離れざるを得なかったことに至っては、神はどこにいるのかという気がしないでもない。
神がいないからこそ、ローマ帝国に負けて滅ぼされた、という立論もできるだろう。

その後、二千年間における、ヨーロッパでのユダヤ人の迫害の歴史、十字軍による虐殺や、スペインからの追放、ロシアでのポグロム、極めつけはナチスによる大虐殺を見れば、神はどこにいるのか、いるならばなぜ哀れなユダヤ人を守らないのか、という気が、誰でもする時もあろうし、これらは神の不在を証明する有力な証拠に使えるだろう。

聖書、およびその後のユダヤ人の歴史は、このように、神の不在の根拠の立論にも使えるかもしれない。

にもかかわらず、である。

にもかかわらず、ユダヤ人が滅びず、同化せず、二千年近く経ってから、イスラエルを復興したというのは、やはり異常な歴史だし、これは神がいるということの重大な証拠になるのかもしれない。

多くの神の不在の証拠ともなりそうな出来事も含めながら、なおかつ、やはり、聖書とその後のユダヤの歴史は、神の存在の証明にもなりうるようである。

もっとも、結局、上記の歴史から、神の存在が証明できるか、あるいは非存在を証明できるか、どちらも私にはよくわからない。

ただ、長い歴史の中で、ユダヤ人が亡ぶことなく存続し、しかもイスラエルが復興されたこと、その言語がヘブライ語であることには、ただただ驚く。

おそらく、神がその心に宿っていた人々は、常にどの歴史においても、ユダヤ人においてずっと存在し続けたのだろう。
だからこそ、イスラエルは復興できたし、ヘブライ語が復興された。
そのことだけは、神がいるかいないかはわからないが、確かなことだろうとは思う。