雑感 二二六の日に

今日は二月二十六日。
七十七年前、二二六事件があった日だ。


1930年代、昭和初期の時代について、今の時代と似ているということを、何人かの方から聞いたことがある。


もう十数年以上前の話だが、佐々木毅先生が1930年代頃と今はよく似ていると言っているのを、直接集中講義で聞いたことがある。
また、もう何年か前になるが、作家の大西巨人さんの講演に行った時に、神聖喜劇が描いた1930年代〜40年代の日本と今とには共通点や似ているところはあると思うかと私が質問したら、満州事変前頃の雰囲気ととてもよく似ていると思うとおっしゃっていた。


あの時代と、今の日本は、若干似ているのかもしれない。
先の見えない閉塞感や、多くの人が抱えている絶望感や、焦燥感といった点で、今の時代とあの時代は多くの共通点を抱えているのかもしれない。


二二六の青年将校と幼馴染だった歌人斉藤史が詠んだこの歌は、当時の雰囲気をよく現していると思う。


「濁流だ 濁流だと叫び 流れゆく 末は泥土か 夜明けか知らぬ」


我々も、この時代の先が、夜明けなのか、泥土なのか、よくわからない。


また、あの時代を生きた詩人の小熊秀雄は、このような詩の一節を残している。


「なんという素晴らしい、沈鬱な暗い夜明けだろう。
これでいいのだ。
暁はかならずあかく美しいとはかぎらない。
馬鹿な奴等は、まだ寝ているだろう。
利口な奴等も寝ているだろう。」


そのとおり、あの時代もそうだったのかもしれないが、今の世も、馬鹿であろうと利口であろうと、大半は眠っている。
三一一で目が覚めたと思いきや、また忘れて眠ってしまっているかのようである。
今が夜明けならば、なんと沈鬱なものだろう。
しかし、その中には、再エネ法などの素晴らしい部分もある。
素晴らしさと沈鬱さが混じった、夜明け前の時代であることは、今もあの頃も同じなのかもしれない。
これでいいのだと思って、この現実の中から一歩ずつやっていくしかないのだろう。


二二六事件を実際に起こった結果から断罪することは、たやすいことだと思う。
青年将校たちの意図や思いとは裏腹に、結果としてはあの事件は、日本の政党政治の息の根を止め、軍国主義への傾斜を強めていった。
彼らが取り除こうとした陸軍統制派がかえって巨大な権力を掌握しただけだった。


もちろん、主観的な意図と客観的な結果の齟齬ということは、厳しく問われるべきことで、今日においても冷静に論じられるべき事柄である。
それが政治というものだ。


ただ、それらを踏まえた上でなお言うのであれば、当時の青年将校たちが抱えていた絶望や焦燥感や閉塞感というのは、本当にはかりしれないものだったろうということだ。
貧困や格差の問題を自分のこととして心を痛め、社会的な不条理や政治の機能不全をなんとか解決したいと純粋に彼らが思っていたことは間違いない。
その純粋さと国を愛する心の深さは、格差や貧困の問題に全く心を痛めることがなく麻痺しきっていた当時の、そして今の、多くのエスタブリッシュメントスノッブにはない尊さがあったと思う。
世の中の憂いを自分の憂いとし、苦しんでいる人々の苦しみを自分の苦しみとして悶え、責任ある立場であればこそ、一身を顧みずに世の中を変えようと努力するという、本当の意味でのノブレス・オブリージュが彼らにはあった。
日本の歴史の中では、そのような純粋さは、しばしば極めて稀なものである。
その点は、デカブリストの乱の青年将校らや、幕末の志士らと比肩できるものだろう。


ただし、だからといって、一挙に世の中を変えようとしても、世の中は変わらないし、一挙に変えようとして無理をすれば、かえって元も子もなくつぶされてしまうということを、二二六事件は、その他の若干似ている歴史上の出来事と同じように、示しているのだと思う。
いかにエリートだけが動こうとしても、一般の多くの国民が考えや思いを共にして動かなければ、世の中は動かない。
電光石火のクーデターで事を決しようとしても、世の中はそう簡単には変わらない。


二二六事件が短期間で収束した主な原因は、よく言われるとおり、重臣たちを殺傷されて激怒した昭和天皇の断固たる鎮圧命令だった。
しかし、仮に昭和天皇がそれほど強硬な鎮圧姿勢で臨まず、元老や陸軍の首脳が違う動き方をして、一時的にあのクーデターが成功していたとしても、青年将校らが想い描いていたような、また北一輝が国家改造法案大綱で示していたような、抜本的な昭和維新が実現できたかは、私は極めて疑問である。
そうなれば、米内光政らが率いる海軍と内戦になっていた可能性もあるし、財閥や寄生地主たちは猛反撃に出ただろう。
それでも、北一輝青年将校らが掲げていたような、農地改革や財閥解体言論の自由の実現などは、GHQ並みの圧倒的な軍事力を背景にしなければ無理だったろうし、そのような強権を握るためにはまたいくつものハードルがあったろう。
清教徒革命並みの血の雨を降らさなければとても目指す政策の実現は無理だったろう。
しかし、それを行うほどは、強力な支持者やイデオローグがたくさんいたようにも思えない。


結局、二二六事件でクーデターが成功しても、彼らの理想は骨抜きになって決着したか、あるいはやや時が経ってから潰されただけのように思う。


もっとも、当時は言論の自由がほとんどなくなってきており、共産党も過酷な弾圧を受けていたことを考えれば、言論の自由を行使して世の中の考えを地道に変えて、デモクラシーによって世の中を変えるということが、非常に困難な時代だったことは確かだろう。
少しでも国体の変革を掲げているとみなされれば、それだけで特高憲兵から弾圧を受ける時代だった。
北一輝は、その理由から、あえて天皇を担ぐことによって社会主義革命を行おうとしたわけだし、農民や労働者が主体の革命は無理だと判断して軍人エリートによる革命を遂行しようとしたわけだった。


だから、あの時代はあれしかないと、北一輝青年将校らも思ったのかもしれないし、そのような面もあったのだろうが、それでもやはり、地道に世の中の人々の意見が変わらない限りは、世の中は変わらないというのが、二二六事件の悲惨な末路が示しているのではないかと思う。


幸い、あの時代に比べて、今の時代の最大の違いは、言論の自由があるということである。
私たちは、自由にさまざまな情報に触れることができ、意見を述べることができる。
そのことは当たり前に思われがちだが、昭和初期の頃からすれば、考えられないほど恵まれたことだろう。
実際、あの時代は、数多くの共産主義者自由主義者が、ただ自らの考えを述べただけで、逮捕され、拷問に遭い、命を落とした時代だった。


後世の人間が、あの時代から学ぶべきことは、あのような時代においても、なんとか世の中を良くしようと願った、二二六の青年将校共産党アナキスト自由主義者やさまざまな人々たちの、右や左を越えて通底していた勇気や純粋な思いを忘れずに受けとめることと、そのうえでなお、あの時代には諸般の事情で実現できなかった、言論の自由の地道な行使によって、世論を変え、そのことによって世の中を変えていくという、デモクラシーによる世直しの不可欠さへの認識なのだと思う。



閉塞感を突破しようとし、焦燥感に駆られ、何かを一挙に変えようとしても、決してうまくはいかない。
どのように今ある悪い部分を除去し、すでにある良い芽を伸ばし守り、世の中を一歩ずつ良く変えていくか。
それには、地道な、長い時間をかけた、相互の意見の調整や対話による、合意形成を一歩ずつやっていくしかない。
それは気の遠くなるようなめんどくさい作業だが、それがデモクラシーというものだ。


そして、デモクラシーというのは一挙に解決の成果をあげることができないからこそ、日々に真剣に心をこめて小さなことを積み重ねていかなければいけないのだと思う。
もし大正や昭和初期の既成政党が、もっと機能的であれば、何も二二六の青年将校たちは暴発せずに済んだかもしれないし、多くの共産党の人々が血の涙を流さずに済んだかもしれない。
だからといって既成政党を破壊してしまっても、かえって悪い結果しか生じないことを昭和初期の歴史は示しているが、大事なことは既成政党がよく機能する政党政治を積み重ねることだろう。
そして、そのためには、国民の側が、政党政治を支え、時には叱咤激励し、単なるお客としてではなく、自ら担うものとしていかなければならないのだと思う。


今の時代がもし昭和初期に似ているところがあるとするならば、我々はなおのこと気をつけて、一度わが国のデモクラシーが破綻したという苦い教訓に学ばなければならない。
一挙に世の中を変えることはうまくはいかないし、かえって悪しき結果を招く。
そうであればこそ、私たちは地道にデモクラシーを、時には命がけで、担っていかなければならない。
そんなことを、今日はあらためてつらつらと考えた。