有身見について

有身見について、

「預流果に至ることで消える「有身見」とは、単に肉体の感覚器官により生じる欲望を楽しませることを良しとする考えを捨てること」

とあるネット上の掲示板で言っている人がいて、驚いた。

これは、明確な誤りである。

有身見(sakkāya-diṭṭhi)とは、五蘊を自我と同一視する見解のこと。
つまり、我はある、我が身はある、という見解のことだ。


sakkāya-diṭṭhi: 'personality-belief', is the first of the 10 fetters (saṃyojana). It is entirely abandoned only on reaching the path of Stream-winning (Sotāpatti-magga; s. ariya-puggala). There are 20 kinds of personality-belief, which are obtained by applying 4 types of that belief to each of the 5 groups of existence (khandha, q.v.): (1-5) the belief to be identical with corporeality, feeling, perception, mental formations or consciousness; (6-10) to be contained in them; (11-15) to be independent of them; (16-20) to be the owner of them (M. 44; S. XXII. 1). See prec., diṭṭhi, upādāna 4.

http://www.budsas.org/ebud/bud-dict/dic3_s.htm


有身見については、中部経典の中のマハープンナマスッタ(大満月経)でも明確に説かれている。

http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/mn/mn.109.than.html

和訳サイトもWEB上にある。

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「尊師よ、有身見は、如何なるものですか。」
「修行者よ、我を有すると、考えていること。
すなわち、我が身を有すると、見ることである。」
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http://yusan.sakura.ne.jp/library/buddha_mahapunnama/

これらはきちんとその気があって調べようとすれば、調べられるはずのことだ。

仏教においては、凡夫が仏説をゆがめて受け取ったり、その間違って受け取った解釈をよく調べて検討もせずに他の人に流すのは、よくよく慎むべきことだ。

己の愚かさを自覚すればこそ、細心の注意を払い、我見を砕いて謙虚に仏説に耳を傾けねばならない。

仏教に興味を持つことは良いことだけれど、経典や定義をきちんと調べずに、いろいろと誤ったことを言うのは、非常に危険なことだと思う。

自力・他力についても、あまりにも間違った定義から勝手なことばかり言っている人も随分多い。

言葉に細心の注意を払うというのがそもそもの仏教の精神のはずなのだけれど。